冷たい熱帯深夜
だた生まれ育った町に帰っていた。
外には明かりは魂以外一つもなく虫の声が空気を冷やすように響き渡ることにより空気を蒸し暑くする。
それだけは、そのことだけは確かだったと覚えているくらい暑苦しい明るい夜。
ここには正しさと欲望を同時に求めた者が流れ着く。
俗に無法者の波止場と言われているような粗さはない犯罪者と庶民のオアシス。
この場所には生きることを忘れたやつはいない。
子供のころのように生きることを思いだすためにただ生きようとしていることがどんなに幸せなのか感じる。それ故に人生は複雑だ。
平日なのか週末なのかなんて関係ないの流れ者が集まってくる田舎の外れ。
朝、昼、晩と一日の力を使い果たした者たちはここに流れつく。
文化の混ざった歌舞伎者どもが自分らなりに瞬間と永遠の調和した、映画のような実際手の届くことのないなにか近いものを捜す術を探す。
起爆するためのライターならたばこをついでに吸い込み、僕らは緑のドラッグとは呼べるようで呼べないもっと神聖なものを吸い込んでいた。音楽を聴き、感情の底辺までダイビングし、ただ話し、笑い悟る場所に代わる。小さいころは天国とは空にある動かぬ場所だったようにマリファナもまた僕にとっては神聖で危険なドラッグだった。だか今考えることは物事の身近さと草を吸い込むことに抵抗のないこと。偏見とは人々の脳に根を張る蜘蛛の巣だ。インターネットのつながりのようにその糸は脆く細く浅く切っても切れない。
そもそもリンゴのようにぶら下がっている偏見や先入観などはニュートンが見つけた重力の法則より発見することは簡単だ。すべてを経験するのだ。今まで考えていた宇宙の法則やらなんたらはすべて胡散臭い法律と便所の落書きにしか過ぎない。政府とは押さえつけるものであり人間の本質が作り出したまるで実態のないもの。体にいいものを欲しがるのは人間の性とも言えるような毒に満ちた嘘で固まった満月のようだ。音を聴きながら床に横たわることで自分の存在を知る。ここには外の世界にある緊張感などはなく雑巾がけレースをしているようなお互いの信用が目に見える部屋にいる。記憶を思い出すたびに毎晩出航し、思い出が頭の中で踊りだす。心を許せ、信用できる友達とは言葉で言い表すことは論文のように難しい。奴らは自分の知らない自分が歩きだしたときに金属バットで野球で得点するように殴ってくれるような奴らだ。彼らが得点すればすべてが通用する世界なのだ。その世界は地震が常に起こっているとニュースで聴いたことがあるくらい自然な宇宙のループに身を任せている。
食べ物は輝きを増し、本来の役割を果たす。腹が減るものは満たし、腹が満ちているなら輝きを減らす。そんな右と左はどっち側にあるかというくらい単純で最高なことを僕らは忘れさせられている。それを思い出すことを思い出したら、僕らは世界に起こっているとんでもなく穢れた綺麗事にみんな気づける日が来るだろう。貧乏に生まれ育ち社会から排除され宝くじに当たったが換金する権利を奪われた哀れな旅人はまた旅に出る。留まるのも帰るのも退屈。やり方を教えてもらえなければできないことをやってみる。それが人生を破る心理だ。もう一度帰るならばまたここに来る。物体と魂の隠れ家をこの世界に見出すのは難しい。感覚が持つ感情に浸るためにひとまず待ち続けよう。また夜が深くなるまで。