セツエン
七
モンとの諍い、オヤユの訪れから二月が経った。この年は寒さの訪れが早く、まだ秋というのにセツエンは毛皮を手放せなくなっていた。日暮れと共に山から家へ帰り、彼は鼻水がたれて仕方ないことに気づく。毛皮を羽織っても着物があまりにボロで風を通してしまうのだ。深く考えもせず、寒さから身を守るため、部屋の隅でおざなりにされたオヤユのお下がりに袖を通す。
「どうした? それがお気に入りなんか」
床に脱ぎ捨てられたボロ布にカンムは鼻をうずめる。どうして彼女がこれに執着するのか青年には分からなかった。
すきま風に身が凍えた。囲炉裏に火をつけて、川から汲んできた水を鍋に注ぐ。味噌を入れて、山で採ったきくらげと山菜を茹でた。一月ほど前からセツエンは家で飯を作るようになっていた。
「ほれ、お前も食え」
鍋の具を入れた器を鼻先に置いてもカンムは食べようとしない。青年の隣で火に背を向けてじっと伏せている。生肉を好んだようだが彼女は何でも食べた。機嫌が悪いのだと思い、構うことを止めてセツエンは汁をすする。
ぱちぱちと木が燃えている。炎を眺めている内に父の話を思い出した。母と父とで暖を囲っていた時、父がこう言った。
『男たちが冬の山へ狩りに出ている間は豆を煎ってはならん。山の神が怒って雪崩を起こすからな。隠れん坊もいかんぞ、獲物が隠れちまう』
本当なのだろうか、冬になったら豆で試してみるか、などといたずら心に考えていると、山から不気味な音が響いてきた。こんな考えは恐れ多いことと気づいて、青年は心の中で山の神に謝る。その音が狼の遠吠えだという事を青年は知らずにいた。
「……明日は兎でも狩れると良いな。今日よりも、もう少し登ってみるか」
山へ狩りに行く際、セツエンたちは中腹よりも前で引き返すようにしていた。それより奥へ進むとなれば泊まりがけになる。今の装備では山の夜を越せないことを青年は察していた。
「今年も冬が来る」
毎年、冬は辛い思いをしてきた。布団にくるまりカンムを抱いて寒さをこらえた。父の言葉を頼りに食べられる物をかき集めて飢えをしのいだ。今までよく生きてこられたと青年は振り返る。再び訪れる厳しい日々への憂いに、胸は緩やかに締め付けられる。
「山奥にはたくさん獲物がおるんだろうか。行ってみたいのお。だが、俺とお前だけじゃ、無理だ」
セツエンとカンムは変わらず一人と一匹だけで狩りをして暮らしていた。小さな変化もあった。時たま狩りが上手くいって獲物が余ると、オヤユと味噌などを交換するようになった。そうして、たまに顔を合わすたび、共に狩りをしないかと誘われていたのだ。
声をかけてもカンムに動きはなく、変わらず伏せたままだ。器を横に置き、セツエンは彼女の横に寝転んだ。にやけながら尋ねる。
「聞いとるんか?」
火に当たればその暖かさに心は安らぎ眠気が訪れる。ぼうっとした頭で考える。カンムとだけ暮らしてきて何も変わらないような気がしていた。一人と一匹だけで生きていける、そう思っていた。
「ここに居るには、年貢を払わなきゃいかん。親父も獲物を渡していた。そうしなけりゃ奴らは俺らを追い出すだろうな」
年をとるごとに己の立場は変わっていく。このまま年貢を納めなければ昔以上に虐げられ、殺されかねないとセツエンは考えていた。そして、今の狩り方では自分たちの食う分で手一杯だった。
「いっそ山で暮らすか、俺たちだけで。それが出来りゃあ一番だな……」
顔を動かさぬまま、カンムは横目で彼を見た。セツエンは息をのみ、口を閉じる。あごを動かし過ぎて頬の肉が疲れているのに気づいた。なぜ己はこんなに言葉ばかり並べているのだろう。つばと共に汚らわしい嘘を吐く村の奴らのように。青年は喋るのを止めて彼女をじっと見つめる。
出会った頃、カンムは軽々と抱えられるほど小さかった。どうにか食べるものを手に入れて彼女に恵んだ。弱々しくて、助けなければ死んでしまうと思った。気づけばたくましく育った彼女に守られてきた。ひもじさからも、寒さからも、彼女が救ってくれた。少年の生活はずっと、カンムと共にあった。
セツエンは彼女のあごをくすぐる。カンムは首を振ってその顔を彼の腕へとあずけた。やっと笑ってくれた気がした。寄り添って背中を優しくなでる。灰色の毛が細くなり白が増えたことに青年は気づいていた。
山では暮らせない。今は屈強な彼女も老いれば獣に返り討ちされるかもしれない。山に小屋を建てられたとしても真冬の寒さには耐えられないだろう。では、どうするか。セツエンの想いは決まっていた。これからもずっと彼女と共に暮らす。その為のことをする。
オヤユの子らと出会った光景をセツエンは思い出す。彼の息子と同じ年の頃、早く大きくなって父と狩りに行きたいと願っていた。同い年のオヤユの娘はもう大人のように見えた。ああ、己のすべきことは?
オヤユ達と狩りに行くしかない。そこで多くの獲物を狩り、分け前で年貢を納める。他人に借りを作ってカンムとの日々へ干渉されぬために。父のような益荒男になろう。自分より早く老いる彼女へ恩返しをするのだ。漠然とした幸せな明日を思い描き、彼は己の想いの正しさを信じた。青年はこのように考えを巡らして決断したのだった。