セツエン
五
空の果てから日が昇り、獣も人も隔てなく温もりを与えてゆく。小鳥たちは可愛いらしくさえずる。それは、爽やかな朝だった。
「……おい、居るのだろう」
その空気を濁らすように、低い声が空気を震わした。セツエンの家の前に男が立っている。返る言葉はない。
「入るぞ」
男が足を踏み入れる。家主の青年は起きていた。家の隅であぐらをかいて黒石の矢じりを作っている。その傍らではカンムが寄りそい眠っていた。セツエンは顔を上げる。男と目があい、相手が誰か分かるとすぐに手元へ視線を戻した。
「昨晩、モンと諍いを起こしただろう。奴がわしに話してくれた」
彼は亡き父の相棒、オヤユだった。四十代に入り髪は薄くなり、頭のてっぺんには肌色がのぞいている。それでも体は大きいままで威圧感があった。
「……あんたが罰しに来たんか?」
「生意気な口をきくな。あいつは親切心からわしに相談したんだ」
狩りの仕切り役ではあるものの、オヤユは村で特別な役割を任じられてはいない。村では四、五の家が一つの組にまとめられており、その組のもめ事を仕切るのは組頭という者の役目だった。
「お前は甘く見とる。盗みは重罪だ。モンは皆に言う前にわしだけに話してくれた。謝りさえすりゃ許すとな。大事にせんほうが良い」
オヤユの声は低く、抑揚のないぶっきらぼうな話し方だ。対する青年は口を動かすのが面倒なようにぼそぼそと小声で言葉を返す。
「採れる所にあるもんを、とっただけだ」
「山のものとは違う。あれはモンが土を耕して種を植えて育てたもんだ。あいつにはまだ小せえ子供もいる。その飯をお前んとこの犬が盗んだんだ。きちんと償え」
『小せえ子供』と聞いて、セツエンは目を伏せてひととき固まった。そうして、誰に向けるでもなく寂しげに微笑み、口を開く。
「うちに、やるもんは、なんもねえ」
「……そうだな。変わった。この家は」
小屋を見回してオヤユはそう呟いた。過ぎた日の情景をセツエンはぼんやりと思い出す。この家へ来たオヤユと語らう父の姿、笑う母、しかしどれも霧がかかったようで明確にはならない。
「これはお前が獲ったんか?」
「ああ」
無造作に床へ置かれた毛皮をオヤユは指さす。いたちに似た獣で、あまり肉はなく美味くもなかった。毛だけは柔らかかったのでセツエンが冬用にとって置いたものだった。家に踏み込み、オヤユは毛皮を手にとる。カンムが目を見開き睨み付けた。危険を感じなかったのか再び目蓋を下ろす。
「テンじゃねえか。しっかりなめせば、値がはっただろうに。んでも、まだ売りもんにはできるな」
「毛皮なら幾つかある。足りるか?」
他の毛皮を数枚集めてオヤユは両手に抱えた。そうして、セツエンの顔をじっと見ながら、今までになく優しげにこう言った。
「お前も狩りが上手えんだな。親父さんに似て」
父の顔をセツエンは思い出そうとした。狩りをしていた頃の姿はぼやけてしまった。病に伏せ、落ち込んだ目、よだれの垂れた口、そんな顔しか残っていない。けれど、獣の狩り方、食べられる草木、生きるために必要なことは全てその父が教えてくれたのだ。父への憧れは幼い頃から変わらずにいた。
「しらん」
セツエンは気づいていない。父に似ていると言われて、己が喜びに微笑んでいるのを。その顔を見てオヤユは考え込むように眉間へしわを寄せる。
「……さあ、モンの家へ行くぞ」
「渡してきてくれ」
「お前が謝らんと意味がない。来い」
座ったまま動こうとしない青年の手を掴んでオヤユは立ち上がらせようとした。するとカンムが怒ったように男へ吠えかかった。オヤユは身を引き、ため息をついて玄関へ向かう。
「この犬は動き足りんのじゃないか?」
カンムのことを他人にどうこう言われるのがセツエンはひどく不快だった。彼女のことを一番想っていて、一番知っているのは己だという自覚があったから。
「この前、狩りの犬が死んだ。お前とそいつ、一緒に狩りに来んか。犬も気が晴れるだろうし、お前にも犬にも分け前はやる」
自分の太ももに顔をあずけて甘えるカンムを見つめながら、セツエンは灰色の毛を優しくなでる。オヤユへ返事はしない。
「ずっと子供というわけじゃねえ。年貢のこともある。考えておけ。……わしはお前が親父さんみたいに凄腕の狩人になれる気がしとる」
顔を上げ、去りゆくオヤユの背中をセツエンはじっと見つめた。父のように、その言葉はわずかな喜びと息のつまる苦しみを彼に与えた。どうしてそう感じたのかは分からなかった。
カンムが前足をばたつかせた。手を止めていたことに気づいて青年は彼女をなでる。この苦しみを忘れようと、何よりも愛情を込めて。