意味を持たない言葉たちを繋ぎ止めるための掌編
私の世界と言葉に対するちょっとした遊び
私の最近の遊びのひとつをご紹介しようと思う。それはノートとペンのみを手に持ち、街に繰り出し、私の周りで繰り広げられる人々、情景や思想を文字に書き起こす、というものだ。例えば、こないだ駅の構内を歩いていた時に、すれ違った人々を三人紹介する。
① 客引きをするフィリピン人
② 客が一人もいない路上のギタリスト
③ 伝線した黒ストッキングを履く若い女
普通の現実世界にも拘らず、何とも物語の登場人物になり得る人々ではないだろうか。「客引きするフィリピン人」からは、付き合えば明らかにトラブルが起こるであろうことが想像できるし、「客が一人もいない路上のギタリスト」からは何とも哀愁が漂うが、それでもある信念をもつ一人の主人公を打ち当てることができるかもしれない。極め付けは、「伝線した黒ストッキングを履く若い女」である。彼女は個人的に興味深い文学的な人物である。何故、伝線したのか。そして、そのまま歩く意図とは。また、これからどこへ向かおうとしているのか。そのような想像をわき起こせるだけのインパクトのある女性であった。
街を歩くと、このように多くの人々と出会う。その一人一人は皆、物語の主人公となり得る。はたまた、私のようなノートとペンのみを持ち、街の人々を観察する人間も、極めて特異な人間であり、私も物語の主人公になり得るかもしれない。つまり、私が主張したいことは「誰もが主人公になれる」ということである。こう思うと、私はこの現実世界に生きていることが楽しくて仕方がなくなる。何気ない日常、そして何気ない会話、その一つ一つがとてつもなく価値あるもののように思えて。
素晴らしきかな、人生! 私は冗談ではなく、本当にそう思うのだ。
まあ、つまり、何が言いたいのかというと、私はこの世界が好きだ、ということである。
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最後に、私が街を歩いていた時に、ふと思い浮かんだ言葉を一つ紹介したい。
「そこにはひとつの思想があり、ひとつの思考がある。」
この言葉は、駅構内の壁に貼られていた市営動物園のポスターを見た時に思い浮かんだ言葉である。そのポスターには、キリンの顔のアップ写真が貼られていた。そして、彼―そのキリンが雄から雌かは分からないが―はカメラ目線で私を見つめていたわけである。その瞳は、空虚であった。
私が何故、このような写真を見て、このような言葉を思い浮かんだのか。その物語性の解釈は、この駄文を読んでくださった読者に譲りたいと思う。
どうだろう。皆さんは世界を面白いと思わないだろうか。言葉を素敵だと思わないだろうか。このような価値観を認めてくれる方がいるならば、私はとても嬉しい。
以上
作品名:意味を持たない言葉たちを繋ぎ止めるための掌編 作家名:篠谷未義