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加藤アガシ
加藤アガシ
novelistID. 57654
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短編『青年』

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 吉井くんは本屋の店員さんに恋をした―――。

 その店員さんは華奢で黒髪で眼鏡をかけていた。本当に本が好きそうな、真面目そうな女性だった。ただ彼女は脚が悪かった。悪かったというと、上手く伝わらないと思うから具体的に説明すると、左足の先が曲がっていた。
 それが先天的な障害なのか、あるいは事故による半身不随によるものなのか分からないが、彼女が歩くときは常に左足が変な方向にひん曲がり引きずって飛び跳ねるようにヒョコヒョコと歩いた。

心優しい吉井くんは、そんな彼女に同情した。

 彼女が歩くときは、誰もがその特異な歩き方に目を向けた。みんなが見てくる。それがどれだけ彼女にとって恥ずかしく、苦痛なものであるか。しかし、それでも彼女は早く歩くことができず、不自由な左足を精一杯引きずり、一生懸命歩いた。吉井くんはたまたま入った駅前の本屋でそんな彼女を見た。そして恋に落ちた。

 彼女はその歩き方で店内を歩き回り、本の陳列をしていた。吉井くんは何か彼女の役に立ちたいと思った。彼女の抱える苦痛を少しでも取り除いてあげたいと思った。しかし、吉井くんは女性経験が乏しく、あまり快活な人間ではない。彼女に近づきたくてもどうすればよいのか、てんで思いつかない。けれど、どうにかして彼女と話がしたい。これは運命なんじゃないかと強く思いこんだ。

吉井くんは意を決した。なるべく、こちらの好意が悟られないよう、冷静かつスマートさを心がけて、こう彼女に話しかけた。

「あの、すみません。」

「はい?」

 透き通るような声だった。本棚から顔を上げた彼女は色白で、驚いたような表情が堪らなく魅力的だった。


「えと、すみません。森鴎外の本はここにあるだけですか?」

偶然、目に入った森鴎外だった。吉井くんは高校の授業の際に「舞姫」を読んだ(それも一節)だけで、森鴎外に特段の興味などない。しかし、日本文学作家の名を上げた方が知的に映るだろうと思ってこそのチョイスだった。

「はい、森鴎外ですね。そうですね、確か新潮社から出版されているものはその棚だけだったと思います。あと、岩波文庫の棚にも森鴎外がありますが、この棚にあるものと同じ本しかなかったはずです。鴎外の何をお探しですか?」

この一言で繊細な吉井くんは参ってしまったと話す。徹底的に参り、そして打ちのめされたと。後日、吉井くんは私にその旨をこう話した。

「参ったよ、本当に。俺はこれほどまでに、自分がなんて愚かで卑怯者だということを思い知らされたことはなかった。
 正直に白状すると、俺は彼女を心のどこかで見下していたんだ。 脚が悪いことに。それに彼女はどう見ても真面目そうで俺と同じような人間だと思っていたんだ。なんというか、その、あまり人間が得意ではない人間、そう言う風に。
 こんな甲斐性のない俺でも、彼女になら普通に、あるいは同等もしくは一歩先から物が言えると思違いをしたんだ。俺以上に自身に劣等感を抱いている人間だと。 だから、彼女に話しかけたとき俺は、おそらく彼女は俺と同じように伏し目がちに、そして自信なさ気に応えると思っていたんだ。 けれど、それは違った。 ぜんぜん違ったんだ。
彼女の話し方は、表情は、自信に溢れたハッキリとしたものだった。そこらの人間より断然しっかりとした受け答えだった。 俺はこれに参ってしまった。何よりも、彼女が見た目にそぐわず、しっかりしていたことにじゃない。 俺自身の驕り、偏見にだ。
俺は勝手に、彼女が脚に障害を持っていることで、彼女はそれに劣等感を抱いていると思っていた。自信がないと思っていた。それは俺自身が、彼女の脚の障害を劣等感を抱くべき恥ずべきもの、劣ったものという認識していたということだ。 俺はこれが心の底から恥ずかしい。彼女はまったくそんなことを思っていなかった。そんなことを一切気にしていないような話し方だった。人間だった。
俺は卑しく、ずるい卑怯者だ。障害を持っている人間は、健常者である俺より、控えめで弱い存在だと思っていたんだ。そして、俺はそれにつけ込もうとした。助けたいと思ったんじゃない、同情でもなかった。勝手な決め付けで、それを利用し、優しさを装い、あわよくば彼女に取り入ろうとしたんだ。
 まったくもって、俺はクズのような人間だよ。こんなに卑しい人間はやはり誰にも好かれるはずがない。 好かれる権利がない、そう思い知らされたよ。彼女の言葉から」


 結局、吉井くんは彼女に森鴎外について聞いた後、『やっぱりいいです』と慌てふためき、そそくさと逃げ帰ってきたらしい。

 吉井くんからその話を聞いた後、私はその店員の彼女がどんな人間なのか気になり、特に買うモノもないのに、彼女の働いている駅前の本屋に足を運んだ。そして、レジスターできびきびと接客している女性を見かけた。なるほど、と思った。彼女はレジスターにいたため、吉井くんが話したような歩き方については見ることができなかったが確かに、一見大人しそうで可愛らしい女性だった。

 そして、私はなんとなく、森鴎外の「青年」という文庫本を彼女の所へ持っていった。彼女は凛とした表情で頼んでもいないのに「青年」にブックカバーを取り付けた。表紙にでかでかと書かれた「青年」の文字は見えなくなった。


青年―――。嗚呼。青年とはいかに空しい時代であるか。





おわり
作品名:短編『青年』 作家名:加藤アガシ