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カクテルの紡ぐ恋歌(うた)Ⅰ

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 あの人に連れられて、美紗が初めてその店を訪れたのは、もう二年半も前のことだ。照明を落とした店内で、憂い顔の美紗を「いつもの席」に座らせたあの人は、テーブルに置かれた小さなメニューを手に取り、
「アルコールは弱くなかったよね。好きなものはある?」
 と、静かに聞いた。美紗は、ためらいがちに、マティーニを指さした。あの人の優しいまなざしも、耳に心地よい低い声も、少しキツめのカクテルの味も、まだ鮮明に覚えている。

 ひとしきり静かに泣いた後、静寂に気付いた美紗は、顔を上げ、頼りない月明かりに照らされた屋上を見回した。バーテンダーの姿は、いつの間にかなくなっていた。屋内に通じる扉は開いたままだったが、周囲には誰もいない。変なところを見られなくてよかった、と、美紗は安堵した。
 そして突然、なぜ自分はここにいるのだろう、と思った。この屋上に来るまでのことを思い出そうとしたが、一時間ほど前からの記憶がすっぽり抜け落ちていた。一つだけ確かなのは、明日を迎えたくないという思いで、ずっと胸がつぶれそうになっていることだった。

 最期にあの人との思い出に浸るつもりで、ここに来たのだろうか。
 最期のマティーニを飲みたかったのだろうか。
 でも、もういい。
 思い出も、自分自身も、すべてを闇夜に消してしまいたい。


「お待たせしました。店、開けましたよ」
 横からふいに割り込んできた黒い影に、視界を奪われた。月明りを遮ったそれが先ほどのバーテンダーだと気付くまでに、数秒の時間を要した。互いの体が接するほど近い位置に立つそのシルエットは、意外にもかなりの長身だった。

 あの人と同じくらいの背丈だ……

 美紗は胸がつきんと痛むのを感じた。