チューしてあげる
優に百メートル超える長い土塀に囲まれた屋敷の前を通って、ぼくは毎朝、小学校へ通った。広い屋敷の庭には松の木や樫の木がうっそうと繁っている。白い土塀のかわらの上に木々が暗い森のように見えていた。昔大地主であったなごりに、「平井家さま」とこの屋敷だけが「家(ケ)さま」と付けられて呼ばれた。土地の呼び名もここら一帯は平井家と呼ばれている。この地域で昔から畏敬の念をもって迎えられる特別な屋敷である。だが、戦後の農地解放でほとんど総ての田畑を平井家は失ってしまった。ただ白い土塀の大きなやしきが残っているだけだった。ケイコはその没落地主の三人兄弟の末娘である。
平井ケイコとぼくは幼稚園からの知り合いである。五年生で初めて同じクラスになった。ケイコはへちまを思わせる間のびした顔。茶色がかった乾いた髪を背中までのばし、それはとうもろこしのひげを思わせるようにうなじの上で束ねられていた。ケイコはみずばなをよくたらしている。幼い時から始終鼻かぜをひいていて、みずばなをなめくじのように鼻孔から出したり引っ込めたりしていた。鼻じるが鼻先から落ちるなと思うとひゅるりと上手に鼻孔に戻した。そして所かまわず、鼻をかんでブーとならすのだった。五年生になるとやはり幾らか鼻汁は少なくなったようだ。ケイコは木登りが得意で、庭の松の木によく登っていた。松の木は8メートルを越える高さがあり、登りやすいように斜めに生えていた。土塀の瓦のはるか上で、おおきく枝分かれしていた。6メートルほどの高さの枝分れまで登り、ケイコはいつもそこにスカートの裾からパンツを少しのぞかせながら腰をかけていた。そして、塀越しに下の道を知った人が通ると声をかけた。「おーい、班長」これがぼくにかける声であった。ぼくはそれがひどくいやであった。通りで木に登っている女の子から、なれなれしく頭上から呼ばれる筋合いはないと思っていた。木に登るのは猿である。鼻たれ猿に馴れ馴れしくされる覚えはないのである。そのうえ、時おりケイコのお母さんが出て来て、ぼくの手にお菓子を握らせた。
「ケイコがいつもお世話になりまして」などと言われると、ぼくは一目散に逃げ出したい気がした。木の上のケイコから声をかけられても、ぼくはチャップリンの泥棒が不意に警察官に出くわす時のやり方で、口笛などを吹いて、いかにも知らないふりにやりすごすのが常だった。きのう、ケイコはその松の木から
「班長、ここまでおいで」と声をかけてきた。そして少しうつむいて何か考えていたかと思うと、不意にとんでもない事を言った。
「ここまで登って来たら、チューしてあげる。」こともあろうに班長であり学級委員であるぼくにむかって、ここまで来たらチューしてあげると言ったのだ。ぼくの顔はみるみる真っ赤になり、かたわらの地面の石を掴んだ。
「くっそ」とスカートの下に見える白いパンツに向かっておもいっきり投げつけた。いつもは犬や猫に向かって投げても当たったことのない石が見事におしりに当たった。
「いたっ、痛いやないか、先生に言い付けてやるから」とケイコは言った。その言葉で、しまったとぼくは思った。なんで当たってしまったのだろうと思いながら家に走って帰った。先生に言い付けてやる。この言葉をその頃ぼくは一番気にしていたのである。四年生までは自己中心的で、確かに我がままだった。ぼくはよく先生に言い付けられていた。委員長のくせにと叱られていた。それでも平気だった。気にならなかった。
ぼくを可愛がってくれたお祖母さんが亡くなったのは二か月前のことだ。菊に埋もれた青白いお祖母さんの死に顔を見た。おしろいが白く塗られ、口紅が赤く、口や鼻孔に白い綿が詰められ、気味悪く鼻の穴や唇の隙間から白くのぞいていた。もうニンゲンではなかった。ひとりでこのように花に囲まれて青白く死んでいくのだ。ニンゲンはひとりで生まれ、ひとりで死んでいくのだ。ひとりぼっちなのだとわかった。なぜだかさびしくってしかたなかった。ニンゲンはひとりで死ぬんだ。だから生きている間だけはひとりぼっちになりたくないと思った。ぼくを愛してくれる親兄弟がいる。仲良くしてくれる友達や先生がいるはずなのだ。でも自分はひとりぼっちのような気がしてならなかった。自分はひとりぼっちではないのだと思いたかった。先生や友達たちがぼくをどのように好いているか。嫌っているのか。気になって仕方なくなった。わがままな事をしていてはだめだ。みんながのぞむようなよい振る舞いをしなければならない。みんなに好かれたい。好かれたいと思うようになってきた。ひとりぼっちにならないためにみんなに好かれる振る舞いをしなくちゃいけない。言い付けられるような、嫌われるようなことをしてはいけない。たとえ本当の自分でない嘘の演技でもそうしないといけない。みんなはいつもぼくを見ているのだ。ぼくはいつも見られているのだ。言い付けられるようなことをしては絶対にだめなのだと思うようになってきた。
ケイコはこの事でさいわい先生に言い付けることはなかった。自分がチューしてやると言った事が先生やみんなに知れるのがきっと嫌だったに違いないとぼくは思った。
2
どうした訳か、ケイコにはあだ名がなかった。あだ名になるべき特徴は山ほどあるのだが、ひとつひとつがあまりに際立っていた。例えば、みず鼻を垂らしているのでその形から「なめくじ」と付けると、次に控えているへちまとか、鼻ばかり咬んでいる「鼻ブー」が死んでしまった。色々なあだ名が次々に付けられても、すぐに消えてしまった。呼ぶときには、あだ名ではなくケイコ、ケイコとみんなは名前で呼んだ。そして、自分でも、
「ケイコはね、ケイコはね」としゃべった。五年生にもなって、自分の事を自分の名で言うのは、馬鹿の証拠だと、ぼくは心の中でひそかに思っていた。
ただ、ケイコは僕の苦手な音楽が得意だった。キーキー声で『はるかな尾瀬とおい空』と歌い先生にほめられた。歌い終わるとツーと鼻水を垂らしたりして、みんなから喝さいを浴びた。音楽の時間はジャーン ジャーン ジャーンと先生がオルガンを弾いて始まるのだが、ぼくは何のことだかわからない。これはドミソ、ジャーン、これはドファラ、ジャーン、これはシレソ、ジャーン。これは何ですかジャーンと弾くのだが、ぼくはなんのことだか分からない。みんな同じ音だ。ぼくは何をやっているのか分からない。和音だと言う。ケイコはそれはドミソ、それはドファラとみんな言い当てるのだ。そのことをお母さんに尋ねると
「困ったわねー、それって音痴っていうのよ」と答えた。
平井ケイコとぼくは幼稚園からの知り合いである。五年生で初めて同じクラスになった。ケイコはへちまを思わせる間のびした顔。茶色がかった乾いた髪を背中までのばし、それはとうもろこしのひげを思わせるようにうなじの上で束ねられていた。ケイコはみずばなをよくたらしている。幼い時から始終鼻かぜをひいていて、みずばなをなめくじのように鼻孔から出したり引っ込めたりしていた。鼻じるが鼻先から落ちるなと思うとひゅるりと上手に鼻孔に戻した。そして所かまわず、鼻をかんでブーとならすのだった。五年生になるとやはり幾らか鼻汁は少なくなったようだ。ケイコは木登りが得意で、庭の松の木によく登っていた。松の木は8メートルを越える高さがあり、登りやすいように斜めに生えていた。土塀の瓦のはるか上で、おおきく枝分かれしていた。6メートルほどの高さの枝分れまで登り、ケイコはいつもそこにスカートの裾からパンツを少しのぞかせながら腰をかけていた。そして、塀越しに下の道を知った人が通ると声をかけた。「おーい、班長」これがぼくにかける声であった。ぼくはそれがひどくいやであった。通りで木に登っている女の子から、なれなれしく頭上から呼ばれる筋合いはないと思っていた。木に登るのは猿である。鼻たれ猿に馴れ馴れしくされる覚えはないのである。そのうえ、時おりケイコのお母さんが出て来て、ぼくの手にお菓子を握らせた。
「ケイコがいつもお世話になりまして」などと言われると、ぼくは一目散に逃げ出したい気がした。木の上のケイコから声をかけられても、ぼくはチャップリンの泥棒が不意に警察官に出くわす時のやり方で、口笛などを吹いて、いかにも知らないふりにやりすごすのが常だった。きのう、ケイコはその松の木から
「班長、ここまでおいで」と声をかけてきた。そして少しうつむいて何か考えていたかと思うと、不意にとんでもない事を言った。
「ここまで登って来たら、チューしてあげる。」こともあろうに班長であり学級委員であるぼくにむかって、ここまで来たらチューしてあげると言ったのだ。ぼくの顔はみるみる真っ赤になり、かたわらの地面の石を掴んだ。
「くっそ」とスカートの下に見える白いパンツに向かっておもいっきり投げつけた。いつもは犬や猫に向かって投げても当たったことのない石が見事におしりに当たった。
「いたっ、痛いやないか、先生に言い付けてやるから」とケイコは言った。その言葉で、しまったとぼくは思った。なんで当たってしまったのだろうと思いながら家に走って帰った。先生に言い付けてやる。この言葉をその頃ぼくは一番気にしていたのである。四年生までは自己中心的で、確かに我がままだった。ぼくはよく先生に言い付けられていた。委員長のくせにと叱られていた。それでも平気だった。気にならなかった。
ぼくを可愛がってくれたお祖母さんが亡くなったのは二か月前のことだ。菊に埋もれた青白いお祖母さんの死に顔を見た。おしろいが白く塗られ、口紅が赤く、口や鼻孔に白い綿が詰められ、気味悪く鼻の穴や唇の隙間から白くのぞいていた。もうニンゲンではなかった。ひとりでこのように花に囲まれて青白く死んでいくのだ。ニンゲンはひとりで生まれ、ひとりで死んでいくのだ。ひとりぼっちなのだとわかった。なぜだかさびしくってしかたなかった。ニンゲンはひとりで死ぬんだ。だから生きている間だけはひとりぼっちになりたくないと思った。ぼくを愛してくれる親兄弟がいる。仲良くしてくれる友達や先生がいるはずなのだ。でも自分はひとりぼっちのような気がしてならなかった。自分はひとりぼっちではないのだと思いたかった。先生や友達たちがぼくをどのように好いているか。嫌っているのか。気になって仕方なくなった。わがままな事をしていてはだめだ。みんながのぞむようなよい振る舞いをしなければならない。みんなに好かれたい。好かれたいと思うようになってきた。ひとりぼっちにならないためにみんなに好かれる振る舞いをしなくちゃいけない。言い付けられるような、嫌われるようなことをしてはいけない。たとえ本当の自分でない嘘の演技でもそうしないといけない。みんなはいつもぼくを見ているのだ。ぼくはいつも見られているのだ。言い付けられるようなことをしては絶対にだめなのだと思うようになってきた。
ケイコはこの事でさいわい先生に言い付けることはなかった。自分がチューしてやると言った事が先生やみんなに知れるのがきっと嫌だったに違いないとぼくは思った。
2
どうした訳か、ケイコにはあだ名がなかった。あだ名になるべき特徴は山ほどあるのだが、ひとつひとつがあまりに際立っていた。例えば、みず鼻を垂らしているのでその形から「なめくじ」と付けると、次に控えているへちまとか、鼻ばかり咬んでいる「鼻ブー」が死んでしまった。色々なあだ名が次々に付けられても、すぐに消えてしまった。呼ぶときには、あだ名ではなくケイコ、ケイコとみんなは名前で呼んだ。そして、自分でも、
「ケイコはね、ケイコはね」としゃべった。五年生にもなって、自分の事を自分の名で言うのは、馬鹿の証拠だと、ぼくは心の中でひそかに思っていた。
ただ、ケイコは僕の苦手な音楽が得意だった。キーキー声で『はるかな尾瀬とおい空』と歌い先生にほめられた。歌い終わるとツーと鼻水を垂らしたりして、みんなから喝さいを浴びた。音楽の時間はジャーン ジャーン ジャーンと先生がオルガンを弾いて始まるのだが、ぼくは何のことだかわからない。これはドミソ、ジャーン、これはドファラ、ジャーン、これはシレソ、ジャーン。これは何ですかジャーンと弾くのだが、ぼくはなんのことだか分からない。みんな同じ音だ。ぼくは何をやっているのか分からない。和音だと言う。ケイコはそれはドミソ、それはドファラとみんな言い当てるのだ。そのことをお母さんに尋ねると
「困ったわねー、それって音痴っていうのよ」と答えた。