かたちのないもの。
洗って、ゆすいで、ちょっと手を滑らせて、金属製のシンクにコロンと転がった瞬間、こっぱみじんに。
DURALEXのピカルディという、かなり頑丈な(それこそ何度床に落としたことか…)耐熱性の(プリンを作るのにオーブンに入れたり…)コップが、跡形もなく、ガラスの欠片になってしまった。ただ割れた、という感じではなく、本当に、全てが同じような大きさの欠片に分裂したという感じ。
幸い怪我もなく、シンクの中でのできごとだったので、後片付けもすっと終わったのだけれど…
頑丈だったゆえに、付き合いも長かった。大学入学が決まり、ひとり暮らしが決まるのと同時に買ったコップ。家の近くの雑貨屋さんで、心躍らせて。当時、ひとり暮らしが決まったら、絶対にこのグラスを買うんだと憧れていた、念願の品だったのだ。
その日から今まで、いろいろな人と、いろいろなものを飲んだグラス。ふたつ揃いで買ったグラス。 泣きながら友人と一緒に飲んだお酒、大好きだった彼とのクリスマス、社会人のつらさが身にしみた夜。どんな時もすぐに引っ張り出されていたグラス。そして、忘れられないあの人との懐かしい日々を、ぼんやりと映し出していたグラス。
そのふたつのうち、ひとつが割れてしまった。
ただそれだけのこと。ただそれだけのことなのに、このせつなさはなんなんだろう?グラスが割れてしまったこともショックだったけれど、残ったもうひとつのグラスを見ている方が胸が痛い。無くなってしまったかたわれを補うのに、新しく同じものを買ったとしても、それはなんだかちょっと違う。もう二度とお揃いには戻らない。
残ってしまった片割れ、いっそ捨ててしまおうか?と手を伸ばすも、すぐに決断できず、キッチンでグズグズする始末。透かして見ると、たくさんの細かな傷が浮かび上がる。いつ、どんな時に、どんな風についたのか、そんなことを考えては、もう会えないあの人との接点を探したりもしている。そして、いつまでも満たされることのないわたしの思いだけが、この片割れに注がれ続けるのだろう。
形あるものはいつかなくなる。でも、それは絶望ではない。
形なくいつまでも込み上げてくる思いこそ、わたしには絶望に思える。