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五月二十九日

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目が覚めたら左手首が黄金に輝いていた。括れの生じている部分のやや下、薄く皮膚が張って、青黒く血管の浮いた場所。そこにぴたりと嵌まる細い腕輪をしているように、私の手首は放射状の光を放っていた。五月も末のことだった。昼間になればもう暑く、私の剥き出しの内股は温い汗に濡れていた。
 ベッドに横たわったまま、暫くその光を見ていた。さほど強い光ではなかったが寝起きの私には眩しかった。頭が鈍く痛む、その最中で私は海を思っている。私の内側には心臓を浸している暗い海があった。プランクトンが死んでは更に死んでいく、赤い色をした生臭い海だ。その生臭い世界を、舟に乗って漂うことが私の日課で、日常で、そうして体臭のように染み着いたにおいは、私の中の光明、それを嗅ぎ取るために必要な五感を、ひとつひとつ麻痺させていった。
 だが、私という人間は、全く不幸というわけではなかった。眠ることも食べることも、笑うこともできた。幸いにも健康体だった。ただそうして、不幸ではないということが私を苦しめていた。眩(くら)めればどれ程良いか、毎日そればかり考えていた。〈正常〉が最も私を苦しめ、寧ろ少しばかり調子が悪い方が、余程都合が好かった。鳥でなく魚であっても、高く飛んだ分だけ、墜落の衝撃に耐えねばならなかった。低い処に居る方が遥かに幸福に思えた。だから私は何につけても無気力に陥った。私はいつか毒に中って沈んでしまうに違いないと信じており、時にわざと顔を突っ込んで溺れようとし、そのたび何らかの〈正しさというもの〉に後ろ髪を引かれ、畢竟自身が壊す運命について思い付き恐ろしくなるのだが、結局は我が身可愛さに溺れ切れないだけの人間であった。
 そのような私を哀れんで、神は一条の軌跡を描きに表れたのだ。漸う目が覚めた。真昼にもかかわらず、部屋は夜のように暗かった。
 私は、神が枕元に屈み込み、娘がしゃぼん玉を吹くような優しさで私の手首に光明を印していく光景を想像した。途端に嬉しくなって、台所から果物ナイフを持ち出した。これは啓示だ。私が眠っている間、神様がいらして、その爪の先でしるしを下さったのだ。ここを切れば何かが出てくるに違いない。きっと素晴らしい何かが。それはきっと、此世には余る程の温情だ。台所へ向かう時、光が風に脅かされないよう、私は身を屈め、右の掌で左を庇いながら歩いた。家族は皆出ていて私を止めるものはなかった。
 足取りは軽く、掌(たなごころ)の中、手首は一層輝いて見えた。握った刃物はおもちゃのように軽かった。
 自室まで戻り、ベッドに腰掛け、曇った刃の部分を、光に重ねるように宛がう。冷たい。心地好い緊張が走る。ここを切れば何ものかが現れるのだ。期待で胸が膨らむ。実際私は深く深く呼吸をしている。私の中の海が波打つ。昂奮から手が震え始めた。最初末端から始まったそれはやがて全身に至り、息が乱れ、脳の傍で心臓が高鳴る。眼球は束縛されたように硬直し、私のつるりとした蒼白い手首と鈍色、それと神の黄金の啓示を見据えて離せなかった。恐ろしいわけではなかった。私は狭い舟縁(ふなべり)で、赤錆色の海を覗き込んでいる心地がした。頭から落ちそうなほど前のめりになって。眩暈がして。けれども、私は、怖くはなかった。息を吐いて、吸って、留めて。切れた。私は呟いていた。切れた。切れた。私の神経はその一言に集中した。
 光は薄らぎ、薄らいだ側から紅いものが染み出してきた。あっ、と思う間に、その軌跡、形跡から溢れたのは血だった。まるでこの奥に水中が広がっておりそこで誰かが最期の一息を零してそれきり沈んでいくようなあぶくが昇った。あぶくは眼の奥が痛むほど鮮烈で、激しく、強烈な赤色をしている。神に従って手首を切らされた、否切った私は、深い失望に襲われた。現れたのは、生命の色に他ならなかった。血は滔々と流れ出し、私は暗い眼で、自分が付けた傷を見下ろした。神の教唆は既に遠ざかり、私は孤独だった。途方に暮れてしまう。光は失せ、部屋は二度と明けぬような夜の色に覆われた。
 そもそも、神が私の許に現れるはずがなかった。私は疾うに神を棄て、殺し、葬ったのだから。
 今更激しい痛みに気付いて呻きながら、止血をするために立ち上がる。どうしたら止められるのか……分からなかったが……また、どうして……止めなければ、ならないのか……分からなかったが……
 とても、とても、眠たかった。痛みはいつまでも続いていた。
作品名:五月二十九日 作家名:彩杜