掌編・打つ波
5歳のぼくは午前8時ちょうどに目を覚ます。お休みの日だから、パパもママもまだ寝ているようだ。やわらかい朝日の優しい感じがカーテンの向こうに広がっているって、その隙間から差す暖かさでよく分かった。そろそろ寒くなってくるはずだねとみんなが言う季節だから、ぼんやりと暗いこの部屋はいつもより冷えているような気がする。目ははっきりと冴えているのに、僕が出ていったらお布団のぬくもりがいなくなってしまうことが急に切なくなって、むしろ”ぬくもりちゃん”という人が死んでしまうような気がして、起きたいという気持ちとこの場所で”ぬくもりちゃん”を守らなきゃという気持ちのせめぎ合いでそこから出られずにいた。
今にして思えば、私の幹はこの日のこの体験だろう。こもった熱にもちろん人格なんて存在せず、事象に名前や人格を与えてそれを勝手に・無駄に大事にしてしまうのは、幼い子供の習性としては一般的であるはずだ。そう、普通のこと。正常。なにもおかしくなんてない…。記憶の空間はそこでぐにゃりと歪み、耳障りな高周波が両耳に流れ込んだ。
X0歳の僕は「爆発だ」と思わず独りごちると、手に持った虹色の鉱石を強く握りしめ、いつか見た日差しに似たお終いに身を預けた。名前を与えていつか救った概念たちを支えきることができず、僕は捨てていったすべてを惜しみながら消えていくつもりだった。
ランダムな角度にカットされた鉱石はコンマ1秒よりも速く様々な彩を映す。忘れさられることから救い個別の人格を与えた”彼ら”は、ただ動じずそこにいた。様々な彩を見せるだけだったが、さいごに僕は救われた。救われたはずだった。
Y0歳の私は何も不自由なく生きていた。ひどく酔った身体は粉々に砕けた鉱石を見ていた。捨てられないなら_すだけだ。終わっていく色彩の叫ぶ、どうか忘れないでという言葉が響き渡ったので、どうせ何も成らないじゃないかと私はぶっきらぼうに返した。
浮かぶ月は古いセロハンテープを上に貼ったかのように暈けており…、月が浮いているというのであれば当然夜だったかと思うが、夕方であったような、いやもしかしたら真昼であったのかもしれない。ふと視界がふわりと浮かび、ぐるりと反転し、私は私を見ていた。私はいつのまにかお月様となり、つまり私は虹色の”__”のひとつになっていた。
打つ波は静かに征き、私はそれを目でなぞっていた。心は何も持たず、裸の足に触れるすべてが不愉快だった。月の光は心を預けるにはいささか美しすぎて、いろいろな瞬間を詰め込み過ぎた身体には不釣り合いだった。
ピアノの音が聞こえる。ああ。どうか知らない曲であってほしい。