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沈む安寧

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詰まる息で涙が滲む。その先にある顔が愛しくて、ずっと見ていたかった。
首を絞めるのに飽きたのか、手放されて唐突に酸素が入ってくる。噎せれば、煩いと殴られた。
目尻の辺りに衝撃、熱。若干眼球に触れて拳が去り、追いかけるように痛みが訪れる。
じんじんと、血液が流れている事を実感させるような痛みに意識を取られ、頭を捕まれた事に気付くのが僅かに遅れた。
頭皮に爪をたて手が離れないようにして、そのまま頭を床に叩きつけられる。一回、二回、と数える事さえできない。
なにかを叫んでいるようだけど聞こえない。それがすごく勿体なく思う。
今、この人の全てが向けられているのだ。なんという幸せ。
絶対的な存在によって定義されることの安堵感が思考を痺れさせる。
腕が痛いのも足が痛いのも腹が痛いのも背が痛いのも首が痛いのも頭が痛いのも心もなにもかも全てが痛いのも、
腕が足が腹が背が首が頭が心がなにもかもがまだあるという証明だ。
この人は全て壊そうとしているのかもしれないけど、与えられる痛みによって全て作り出している。


そう、作り出されている。

この愛しい人によって。


ここはきっと楽園だ。

遠い昔、絵本で見ただけで本物は知らないけど、ここがそう。
ぐる、ぐる、と回る視界に不定形の痛みが頭の奥を揺さぶる。
急に動きを止められ、胃に入っていたものが食道を逆流し始める。
それに気付かれ、口を掌で柔らかく塞がれた。
楽しそうに笑った目は、その掌を決して汚すなと言っていた。
吐き出そうと蠢く身体の内側に、どうにか耐えようとする。襟足に悪寒がはしった。
もっと強い力で口を塞いでくれればいいのに、頭を掴んでいたときと打って変わって、触れるぐらいの力。
どうにか吐き気を飲み込むと、気持ち悪い汗の感触が皮膚を滑っていった。
口を覆っていた手が内側に潜り込む。未だこびりついていたものを削ぎとるように動いて、時々歯茎や上あごを引っ掻いた。
徐々に動きが緩やかになったそれを綺麗にしようと舌を絡めたら、残った手が頭を優しく撫でる。
幸せはもう、ここにしかない。

作品名:沈む安寧 作家名:鈴本糸吉