大坂暮らし日月抄
屋敷へと続く石段を、一段一段、昔の出来事を思い巡らしながら踏みしめた。
玄関扉を開くと、式台を上がったところの玄関の間正面中央に、正座をして、じっと見つめてくる眼差しがあった。驚きで、ひと呼吸止まった。本日帰館することは分かっていただろうが、刻は分からなかったはずである。
いつから、そうしていたのか。
「祖母様、ただいま戻りました」
一礼に合わせて、祖母は大きく頷くと、立ち上がった。祖母に先導されて、奥座敷に入った。そこには、先祖を祀る仏壇がある。祖母は仏壇の前に座り、晴之丞はその後ろに控えた。ひとわたり念仏を終えると、晴之丞に座を勧め、祖母は脇に寄った。
晴之丞は型通りの所作を終えると、祖母に向き合った。
「勝手な振る舞いをして、申し訳ありませんでした。祖母様の御取りなしのお蔭で、軽い刑罰で終えることができました。これからは祖母様に孝を尽くせ、ご家老のお言葉にございます。ご家老のお言葉がなくとも、そのつもりでおりました」
祖母は眼を据えたまま、大きく頷いた。
襖をそっと開いて、祖母の身の回りの世話をしている梅が、顔を覗かせた。
「奥様、後は若様のお支度のみですけぇ」
「こげん日を、どんだけ待ち望んどったちょうか。さぁっ、身を清めて支度しなっちょ。こげなご時世じゃけぇ、じぇえたくできんけんど、慶ばしぃ晴れの日じゃ。花嫁、しびれ切らして待っちょってや」
「若様、こっちによう、起こしなすってや」
嫁となる人物については、委細説明がなかった。家と家が取り決めてしまえば、否とは言えないのである。
身を清めている間に、晴之丞は覚悟を決めた。目を固く閉じ、小雪の面影を振り払った。湯殿の窓を少しだけ押し開いて、空を仰いだ。すでに暗くなっている空から、雪、が舞い落ちてきていた。
「・ゆき、かぁ」
梅の手で頭を整え、紋付袴を身に着けてもらった。
「なんちゅう凛々しいお姿」
梅は目を細めて、晴之丞を見上げた。
梅が本座敷の襖を開き、鶴亀を描いた掛け軸と生け花で飾り付けた、床前の席へと案内した。
そこにはすでに、綿帽子をかぶった白無垢の、嫁となる人物が、うつむき加減に座っていた。花嫁の脇には国家老の奥方が、晴之丞の横には国家老の塩見宅共が座っており、微笑んで晴之丞を見つめている。
晴之丞の心臓は跳ねた。まさか、国家老が媒酌人であろうとは、思いもしなかったことである。ならば花嫁は、そこそこの身分のあるお家からの輿入れに違いない。花嫁方の付添人はいないらしい。ほかには、祖母と大橋三郎兵衛がいるだけである。親類縁者の顔もなかった。
座に着いた晴之丞は、そっと花嫁を伺ったが、綿帽子が顔を隠してしまっている。
厳かに三献の儀が進められ、国家老が『高砂』を吟じた。
高砂や、この浦舟に帆を上げて、月もろともに入り汐の、波の淡路の島蔭や近く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり