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公務員に成れなかったコックローチ

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脱法ハーブを吸うと平べったく体が床に押し付けられるように重たくなり、仰向きにひっくり返されたゴキブリのようになった。手足を空にばたつかせ、総てがゆっくり動いているようだった。自分が自分であることが分からなくなり、ニンゲンであることが分からなくなった。点けっぱなしのテレビの音が聞こえなくなり、ジィージィーと言う虫の話し声、あの歓喜の声が聞こえた。何を話しているのだろう。聞き耳をたてた。そうだ私を呼んでいるのに違いない。私を呼ぶ声だと若者は思った。ハァハァと息をしながら、よだれを垂らした。ゴキブリはくるくるとむちのように触覚を振り回した。頭を下げ小さな複眼で食べ物をさがして、裸の胸や腹の上を這いまわっている。顔の上を這いまわり耳の中を触覚で探ったり、においを嗅いだりしている。半開きのよだれの口の中に入り、若者は思わずプッと吐き出したこともあった。ときおりプツリと咬むことがあったが痛くはなかった。それにも慣れた。若者にこれまで恋人などいたためしはなかったのだが、これこそ恋人が爪を立てる愛撫、接吻のような愛にさえ若者は感じるのだった。若者は毎日毎日ドラッグを吸うようになっていった。
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二か月が過ぎた。分厚い給与袋を持って来て、そして、社長が若者に言った。
「近頃、夜中にゴキブリを撒いているやからがいるようだ。そんな都合の悪い噂が住宅地に立ち始めている。我々のことだ。もうだめだな。見つかる前に止めることにしよう。捕まる前に止めよう。十分に金は稼げるほどまき散らしたつもりだ。後は証拠を残さないように始末しなければならない。この家の地下に大量の殺虫剤をまき、あいつらを皆殺しにしてくれ。」
「あいつら?あいつらを殺すんですか?そんな可哀そうなことは出来ません。絶対に出来ません。かれらは私の大切な仲間です」と若者は答えた。
「そうか仕方ない、それなら俺がやるしかない」と社長は言い残してプイとそのまま出て行った。
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目を開いても目を閉じても、目の前がキラキラ光っている。薬のせいだ。結局この町にいては、殺虫剤でわたしの可愛い仲間たちは遅かれ早かれ殺されると思った。可哀そうに、仲間を助けてやらなければと若者は思った。いいや仲間なんかではない、それをはるかに超えた同志なのだ。復讐を誓い合った同志なのだ。愛情すら感じている同志なのだ。逃がしてやらねばと白目をむきながら若者は強く決心した。
その夜、ゴキブリのきらいなレモンのかおりの芳香剤を部屋の四隅から大量に撒いて、地下室から同志たちを追い出した。そしてコックローチマンの衣装に着かえることにした。同志よ!同志!と思った。書物に書かれていた人民解放軍を率いる毛沢東のような気持ちになった。今や、同じ形同じ色をした同志なのだと衣装を身にまといながら思った。涙がポタポタこぼれてしかたなかった。さあ出発だ、羽を大きくひるがえして若者はよだれを垂らしながら立ち上がった。
ゴキブリの館から東へ三百メートルのところに関門海峡の壇ノ浦があった。ここはかって平氏一族が源氏一族に滅ぼされ、女、子供までが切り裂かれ、海の藻屑となったいくさ場だ。数百の傷ついた遺体が浜に打ち上げられ、海の底に沈み、その屍に蟹が群がった。平家一族の武将の恨みが、怒りの顔となり、赤い蟹の甲羅に深く刻まれ、平家蟹と気味悪がられた。ここはたたりの海、幼帝や公達の怨霊のさ迷う海であった。しかし、現在、向こう岸まで数百メートルの海峡にトンネルや長大な吊り橋が架かり、九州と本州を繋ぐ動脈になっている。この狭い海峡を多くのタンカーが行き来し、青い鬼火のゆらめく海、たたりの海はとうの昔になくなっていた。
若者は大きく腕を振り上げ壇ノ浦を指さして「いくぞ」と声を張り上げた。道路は数千のゴキブリで埋め尽くされている。ゴキブリの大群は海峡の砂浜に向かって、津波のように進んで行った。路面は黒く揺れているように見えた。誰もいない広々とした道路を若者は茶色の羽をひらひらと羽搏かせ、先頭に立ち「行くぞ、行くぞ」と叫びながら走った。ゴキブリたちも羽を薄く開いて触覚を鞭のように振り回し急ぎ足に滑るように、若者について行く。波頭が白くみえる黒い海が彼らの眼前にいっきに広がった。月影が明るく、波に映ってちらちら月が輝いている。大きく息を吸うと磯の香りがした。ザァーザァーと聞こえ、潮騒が呼んでいると思った。彼は振り向き、拳をふりあげ砂浜で同志たちに檄を飛ばした。よだれがポタポタ砂の上に落ちた。
「君たちだ。君たちが世界を作る。未来を作る。海峡を越えろ。旅立ちだ。ああなんて幸せなんだ。」
ろれつが回らない。切れ切れの言葉になった。若者の周りを無数のゴキブリがイワシの群れのようにかたまって飛び回っていた。
丁度その時、壇ノ浦にはひときわ明るく輝かくおおきなフェリーが夜の海を航行していた。その上空をゴキブリの群れは本州の大地に向かって真っすぐに羽搏いていく。若い男女の修学旅行生の甲高い笑い声があたり一面、船上からひびいていた。
そして、船の下、冷たい水の中で若者が嗚咽していた。
        エピローグ
五日後、快晴の朝、海峡から見える四月の山並は桃色に満開であった。行きかう船が波を切り、白波の立つ青い海面に浮き沈みしているものがあった。茶色の布を扇型にひらいて、その真ん中に「虫」と言う白い文字が読めた。腐敗し、ふくらみかけたむくろが波間に漂っている。魚たちが群がりその肉を啄んでいるのだろうか、キラリと鱗を光からせる黒い魚影がしきりに周囲に見えた。
次の日、地方紙が小さく報じた。バスを横転させた統合失調症の若者が病院を退院したのち、ゴキブリの格好をして海に遺体で発見された。
 警官が若者の住んでいたという一軒家を、調書を作るために訪ねた。鍵は掛かっておらず、あたりに牛糞のにおいがした。家の奥の地下から強烈な鼻を突く死臭がした。階段の下にはパイプレンチ、殺虫剤用の大きな噴霧器と真っ黒なゴキブリに覆われた塊があった。コックローチ社の社長の遺体であった。社長はレンチで頭骨を砕かれていた。口や顔、むき出しの素肌や血糊に真っ黒にゴキブリが群がっていた。警官が耳をすますと、ジィージィーと歯ぎしりするような音が黒い塊から聞こえた。


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