気持ちのままに
自分の立ち位置
若いころは経済的ゆとりが無かったから、車を買うことは夢であった。中古車でも車であれが優越感を感じたものだった。外食も週に1回行けば嬉しかった。ラーメンやカツどんが旨かった。その時代はそれで十分幸せであった。
今になってみると懐かしく感じる。自分たちの当たり前の生活が、気持のどこかで、その視点から物を観てしまう、考えてしまうのだ。若いころは、上流階級の人の生活をしてみたいと思った。しかし、近づいてみれば、その生活も、憧れるほどの事もないと感じた。少しだけ立派な家。豪華な食事。多少の貯蓄。でも、それらと引き換えたものがある。優しさかもしれない。
年収200万円位の人が増えていると、報道されても、関心が湧かない。餓死した報道では何とか助けることは出来なかったのかと、考えた。よく考えれば、月に15万円の収入で、親子3人として、どんな生活できるのか?
いまは政治が何とかするだろうと甘える。若い時は、憤慨し、抗議した。いつしか自分の事に、家族のために、幸せを求めた。確かに手につかんだ。だから、貧しい(たいへん失礼な言葉ですが)方の事を忘れている。
貧しかったころは仲間意識があって、助け合って、努力した。高度成長経済の時代であったから、運もあったのかもしれない。疲れて歩いた人と、走りぬけられた人。
格差が広がっているらしい。負の連鎖は断ち切りたいが、これも政治の力。たとえば尖閣諸島を守るのに、どれだけの予算を使うのか?この予算を育英資金に使えば、多くの大学生が誕生できる。
裕福な人の政治は目線が高いから、きっと本当に貧しい方たちの事はうわべだけかもしれない。同じように、自分には何もできないと痛感している。