Hysteric Papillion 第10話
窓から流れていく景色を見ながら、私は運転席にいる冴島にそう尋ねた。
黒塗りのハイヤー。
ダイッ嫌いな、黒色の。
普通の人なら目を見張って驚くかもしれないけど、このギスギスした感じの空気と、妙に座り心地のいいクッションは、私にはかえってひどく不快な感触を与えていた。
私の質問から少し。
バックミラーに、ちらりと、こちらを振り向いた冴島の切れ長の目が映った。
「社長からのご命令です。昨日のように、お嬢様にふらふらされ、恥をさらすことがないようにと」
冴島は、いつもながら、冷静沈着、それ一筋、悪く言えば、融通気かずの頭でっかち。
私は冴島の言葉を聞いて、左足と右足を上下に組み直した。
そこで、いつもなら、冴島が『そのようなはしたないことはおやめください』と言ってくるのに、今日に限っては、何もお咎めはなかった。
ああ、それ以前に、本当なら『どうして迎えに来たの?』の地点で、怒られてたかな…。
冴島の反応の少なさに少しがっかりしながら、私は息を吐き出した。
「恥ねえ…」
恥か…。
それはどっちなんだか。
私が昨日、司原家の人間として恥をさらしたというならば、あなたたちは、常に生き恥をさらしているのに等しいでしょう?
空虚な気持ちと、そんな風な妙な優越感、そして、絶え間ない怒りの気持ちが胸に沸いてくる。
そんな時、車は信号に引っかかって、キイッと止まった。
横断歩道と歩道橋が同居するところで、青信号の中、小学生の帰宅軍がワーワーとけたたましい声を上げながら、歩道橋を駆け上っていった。
その光景が、色あせたような記念写真みたいに、小さな頃の拮平ちゃんの姿とかに置き換わっていって、どうしてか、目を背けてしまった。
そういえば。
私があんなふうに小学校を通えたのって、一体何ヶ月間だったっけ??
そう思うと、よくわからないモヤモヤした感情がグチャグチャと頭の中でかき回されていた。
一言、つぶやく。
「冴島だけは、私のこと…わかってくれてると思ってたのにな…」
信号が変わると同時に車のエンジンペダルを踏み込んだ冴島は、安全運転を心がけながらも、また、チラッとこちらを振り返った。
冴島は、私が叔父夫婦に引き取られたときからのお目付け役。5つ上のはずだから、私が7歳のとき、たぶん、12歳の小学6年生。
実は、冴島も、小学校、中学校と、ずっと聖マリアンナだった。
ただ、年齢の条件上、べったり一緒にいたのは、まだ学院の生活にも慣れてなかった1年間だけだけど、それ以来も家庭教師に、お出かけのお供にと、自分で思うのもなんだけど、いつのまにか半分執事みたいな感じになってた気がする。
今だって、大学に通いながら、勉強を見てくれたり、こうやって車を動かしたりしている。
返事は、ない。
「これだけ一緒にいるのに、どうしてわからないの」
つい、声が大きくなってしまう。
せめて冴島だけには、わかっていてほしかったのに。
冴島は、一言も口を開こうとしない。
「…冴島なんて、だいっ嫌いだ!!」
車が家の門の前に止められた瞬間、私はカバンを叩きつけるように冴島に渡すと、ドアを蹴り開けてスカートも乱れるのにかまわず、走って邸宅の中に飛び込んでいった。
もう、あんな奴なんて知るもんか。
この家の中で…やっぱり私は一人なのだから。
大きな豪邸の3階の一番端に位置する私の部屋に、叔母やお手伝いさんと挨拶を交わすこともせずに、中央の螺旋階段を駆け抜け、流れ込む。
ドロのシミ一つ残っていない真っさらなスカートのすそが翻るたび、そこから目を離す。
呼びたい名前は、一つだった。
窓を閉めてもなお、カーテンがなびいているのにもかまわずに、すぐそばのベッドに倒れこみ、ぎゅっと自分自身を抱きしめる。
あの人の存在を、自分で埋め合わせていくように。
「またねって、言ったじゃないですか」
汗に濡れた髪の上を、幾度となく新たな水の雫が通って吸い込まれていく。
「もう、何日たったと思ってるんですか」
ひんやりしたシーツが、頬に冷たい。
「嘘つき…」
黄金色の空が暗い闇に飲み込まれていくのに合わせるかのように、私の中の思いも、だんだんと濃い睡魔の闇に飲み込まれていった。
手には、細くて、握り締められた金属の感触が、無意識のうちに存在していた。
作品名:Hysteric Papillion 第10話 作家名:奥谷紗耶