神は許された
彼はN市の古い住宅街にある塾の講師のかたわらで神父をやっている。もう三十年になる。過去を誰も知らない。だた、その顔の深い皺が彼の決して楽ではない人生を歩んできたことを物語っていた。
良平は幼い頃から敬虔な母親に連れられて、教会に通った。
中学生の時だった。良平はいたずら半分に万引きをやったことがある。悪いことにその神父が目撃されてしまった。神父は何も言わなかった。その沈黙を良平は恐れた。
真実がばれるのを恐れて、神父に黙っていることを頼もうとした。その前に、「どんな罪も神は見逃さないのか?」と聞いてみた。すると、「罰するのではなく、許すのが神の役割だ」と神父は答えた。良平は神父の目を見た。神父の目がとても穏やかなのに驚いた。その眼は許すと言っていると勝手に解釈した。
それから十数年が過ぎた。
良平は一流大学を出て、一流企業に入った。
妻になる美子とは、長い恋愛期間を経て結婚した。その五年後には子供ができた。さらに、その十年後には、良平は部長になった。異例の出世だった。何もかもがうまくいった。なにもかもうまくいった。しかし、人生はほんのちょっとしたところから綻んでいく。良平のもうそうだった。
妻の不貞を偶然知ってしまった。息子のアキラとは、血がつながっていないことが分かったのだ。密かにDNA検査をして、不貞が判明したのだ。それを妻にも、ましてはアキラにも告げることができず悶々とした日々を送っていた。
妻は昔と変らず良妻賢母の役を演じていた。良平もまた、よき夫を、よき父親を演じようとしたが、その役を演じられなくなってしまった。別れ話をするのは簡単だったか、その一言で十五年間の関係が無に帰すのが怖かった。
宙ぶらりんの状態だった。だが、何気ない妻の一言で、それが大きく変わる。彼に殺意が芽生えるのだ。
子供の学校のことで妻が相談したとき、彼は「そんなこと、お前が決めてやればいい」と言った。すると、その日、妻も虫の居所か悪かったのが、「あなた、達也のことはどうでも良いと思っているんでしょ? 考えているのは自分のことばっかりね。いつも、そうね」と見下したような目をした。その冷ややかな視線を感じたとき、彼の心の中に殺意が芽生えた。それは日増しに大きくなった。
息子がつまらないいたずらをしたとき、彼は激しく怒った。
その凄まじい形相に、「お父さんは僕を嫌っている?」と息子は聞いた。
「何を言っている? そんなことはあるはずはない」と笑い飛ばすが、どこか白けた感じがするのを隠せなかった。
妻は夫の微妙な変化に気付いた。まるで自分の息子でないような扱いをしている。そういえば、数か月前に病院から夫に郵便が届いた。あれは何だったのか? 聞いても、夫は何も答えなかったが、ひょっとしたら、密かにDNA検査でもしたのではないか。夫は最近、息子が自分に似ていないと言っていた。それがあの郵便物が来てから言わなくなった。DNA検査の結果で、息子と夫の血のつながりがないとしたら… …彼女の脳裏に遠い昔のことが過ぎった。ひと夏の恋のことである。夫が仕事ばかりして、かまってくれないときがあった。家政婦のようなつまらない日々から、抜け出すことを夢見たことがあった。たまたま一人の若者が彼女の目の前に現れた。日焼けしていて、まるで異人のような目鼻がすっきりした美男子だった。年甲斐もなく恋に落ちた。しかし、禁じられた恋ゆえに、最後の一線を越える前はしなかった。少なくとも、あの日までは。それは夏の日のことである。映画を見た帰り、突然の雷雨に思わず、雨宿りのつもりでラブホテルに入った。激しい雷に彼に抱きついてしまった。それが始まりだった。つい一線を越えてしまった。たった一度だけだった。その後、若者と直ぐに別れた。その後、妊娠した。子供の血液型は父親と同じA型だった。それゆえ、ずっと父親の子と信じていた。だが、あの若者も同じA型だったら……。十五年のことが鮮やかに蘇った。
良平は運悪く大きなプロジェクトに失敗した。何十億という損害を出し、閑職に追いやられた。仕事人間の良平にとっては、もはや生きる望みを失ったのも等しかった。そのとき、彼は決心した。もう幸せの芝居を演じる必要がないと。そして、全てをこの地上から消し去り、自分も煙のように消えようと。
祭りの日、彼は家に火をつけた。
妻は煙にまかれて死んだ。彼も一緒に死ぬつもりだった。しかし、息子が助けに来た。息子は火の粉を顔に被り重症となった。良平は軽症だった。火事は失火として処理された。
良平は何か救いを求めるように教会に通った。また、必死に看病したかいもあって、息子は死を免れた。
数年後、良平は自殺をした。
彼の心の支えであった神父に宛てに手紙があった。そこには、いろんなことが書かれていた。妻を深く愛していたこと。息子と血のつながりがないこと。無理心中を企てたが、息子によって助けられたこと。反対に息子は大きな火傷を負って、見るに忍びないと。せめての罪滅ぼしに自殺をすると。また、息子に真実を伝えてくれとも書いてあった。
父親が足繁く教会に通っていることを知っていたアキラが神父を訪ねてきた。
「神父さん、何か父は言っていなかったでしょうか?」
「何を?」
「自殺に関係するようなことを?」
「いや特に、……奥さんを愛していました。とても深く」
「だから後を追って自殺したとでも? 僕を置いて?」
「分かりません。それは……」
「ただ、奥様を愛し、あなたを自慢していた。それは間違いなかった」
「そうですか……神に仕える神父さんがそう言ってくれるなら、とても安心しました。父は僕を看病しているとき、一人ごとのように“許してくれ”とか“俺を殺してくれ”とか呟いていたので……良からぬことですが、てっきり父が母を殺したのではないかと想像してしまいました」
「きっと、奥様を亡くされた悲しみがそうさせているのでしょう。悪夢を見ていたのです。それ以外、どんなことが考えられます?」
アキラは神父を見た。穏やかに微笑んでいた。
「神父さんの話を聞くまで、本当のことが分かりませんでした。でも、今は神父さんの話を信じます」
神父は軽くため息をついた。
「信じる者は救われます。で、アキラ君はこれからどうします?」
「はい。父の葬儀が終わったら、父の故郷に母と父の骨を埋めようと思います」
「それは良いことだ。それから?」
「それから、医者になろうと思います。医者になって多くの人の命を救おうと思います」
「いい心かげです。天国にいる両親もきっと満足するでしょう」
「神よ、許したまえ」
「神よ。神に仕える身でありながら、真実を伝えませんでした。これでいいのでしょうか?」と神父はキリスト像の前で懺悔した。
その時だった、日の光がキリスト像を射した。光り輝くキリストがほんの一瞬ではあったが微笑んでいるようにみえた。
彼は自分にこう言い聞かせた。「神は許された」と。