想い
海に逃がしてやった。
私は砂浜に上がって来て、そこに腰を下ろ した。ずぶ濡れの服の乾くのを待ってい た。波打ち際に目をやると、私の足跡は波 に掻き消されていた。 砂が纏わりつくのも構わず仰向けになって 空を見上げた。私には、世界は一色に包ま れていると思われた。そしてまたあの夢を 見ていた。
昔の部長様が作った屋上プールの合鍵が秘 密裏に受け継がれているという話。ある部 長はそこを性交用のスペースともしたとい う伝説もある。その鍵は私も見たことはな かったが、でもいつか手に入れるものと信 じて疑わなかった。 ある時私は当時の部長を附け、
ドに入っていった。そこでは彼女が屋上の フェンスに腰掛けていた。手はフェンスに 置き、バタ足の練習の様に脚を投げ出し て、プールに背を向け座っていた。恐らく 彼女はまだ私に気づくことすらなくいつも の孤独の中にあった。小さな丸っこい背中 であった。 「何が見えるんですか。」 私は自発に尋ねていた。振り向いた彼女の 姿の綺麗なのに誰が敵うだろうかと、感じ ずにはいられなかった。 「影を、少し。貴女は空を仰ぎなさい。」 そう言って彼女は踏み切り台を蹴り出した
彼女の綺麗な躯が、その爪
ようだった。
先、顕になった白い脚、艶やかな湾曲や丸 みが水に溶けていく姿が脳裏に浮かんだ。 美しい人だ。それから重みのある音が響い て、私を呼び覚ました。 フェンスまで寄って行き、彼女のその様を 確認した。なんとも悲惨な姿、首は捻じ曲 がり、そこのコンクリートが程よく濡れて いる。 私は取り乱してはいたが、すべき事が明確 に見えていた。ポケットに入っている薬瓶 からすべての錠剤を辺りへと撒き散らしな がら空にし、そこに震える手で必死になっ てプールの水を掬い入れた。その水での み、私がまだ彼女を所有しうるのだと信じ た。彼女が触れた水はもうこれしか残って いないだろうと。 そして警察が駆けつけ一時騒然とした。そ の後の調査によりプールサイドに散らばっ ていた薬が筋肉増強剤と知れた時、彼女の 死は水泳競技の苦悩による自殺と断定され た。ドーピングと自殺とのシナリオがメ ディアにより、まことしやかに展開され、 裸に遠くない水中の少女の偶像が何よりも 世間を沸かせた。 そして部活をやめた私は、海に放されたよ うに消えた温もりを求め、夜の街を溺れる ように彷徨った。
影が前よりも短くなっている。先程までの 情熱の混じった海も既に畏まっていた。今 は昼時だろうが、全くと言って空腹感はな い。辺りを見回すと少し丘になった場所に ちょっとした向日葵畑と教会がある。 私は立ち上がった。畑の向日葵の生え方の 為、ここからはその後姿しか望めない。恐 らく太陽が彼らの向いているあの奥にあ る、そう確信をすると、私の脚が自然とそ こに向いていた。 私が教会の前に至ると、向日葵たちは笑顔 を浮かべ、気持ちよさそうに風になびいて いた。 教会の扉を開けた。ステンドグラスから程 よい陽が漏れて入っている。神父はこちら に背を向け、オルガンを前にし、表情が分 からない。 その次の瞬間である。パイプオルガンが響 き始めた。主よ人の望みの喜びよ。美しい 旋律が神の加護をこの教会全体に行き渡ら せ、溢れて出て行く。向日葵畑へと、丘を 下ったこの街へと。 そして膨れた赤い物体が神父の頭上に浮か んでいるのが目に入った。恐る恐る神父の 元へと近づくとそれが風船であることが知 れた。そして更に寄って行くと、それは神 父の左手の薬指に結ばれていたのだ。なる ほど、神父の手が舞うのと同じくして、音 が流れ出て風船も微かに揺れる。私の存在 にようやく気付いたのか、神父は手を休め て振り向いた。 そうだ、この人も決して愛しき人と結ばれ ることは叶わない。彼はただ天を仰ぐ赤い 風船とだけ結ばれているのだ。
れもある一つの形だろう、
て私から先に口を開いた。 「私はある女の人と共に、育んだ愛を置い て来たのですが。」 そして、神父は口にする。 「コリント人への第一の手紙、第十三章八 節、愛はいつまでも絶えることがない。そ う、なのですよ。」