Sonata
2
少年は懐と名乗った。それ以外は言わなかったから、初めは何も聞かなかった。
放っておけば家に帰るだろうと思ったし、何も聞いてやる義理などないと思ったからである。一弥は懐を連れ帰ったものの、特に何をするわけでもなく、ただ彼が存在していることを視界の端に認めていただけだった。
とりあえず、小腹がすいたので、一弥は冷蔵庫を開いた。中には、買っておいた食料がまばらに点在している。じゃがいもや人参は戸棚に入っているはず、それならばと思い、牛肉の塊を取りだす。包丁で切り分けたら、生肉独特のにおいがした。
鍋で肉を炒めていると、背後でソファのなる音がする。振り向けば、ソファの上で膝を三角に折った懐が、小さく背を丸めていた。着ているものはびしょぬれだったため、一弥は自分のセーターを着せたのだ。一弥に比べてまだ未成熟の体躯をしている懐はまだ小さく、袖を折り返していた。
まだ寒いのか、懐はクッションを抱きかかえて身を震わせていた。
そうしていると、男ではなく少女をさらってきてしまったような錯覚に陥り、一弥を苛立たせた。元々はっきりしないことが一弥は苦手である。今回のように何を伝えたいのか理解できない状況を酷く嫌った。
初めは黙ってそれにつきあってやった一弥だったが、そろそろ我慢も限界である。もっていた包丁を投げつけそうになりながら、必死で自分を押し止め、懐に話しかけた。
「何や、言いたいことがあるなら言うてみ」
「――――……」
相変わらず、懐はだんまりで、抱きかかえたクッションをさらにきつく抱きしめた。ただ、目線だけは一弥を真っ直ぐ捉える。じっと、捨てられた子犬のように大きな瞳を潤ませていた。
「言え。その方が、オレも楽や」
懐に背を向けて、肉の中に野菜を放り込んだ。野菜が肉の脂と混じって徐々に火が通っていく音、一弥は調理の音に混じった懐のかすかな声を聞き取ろうとした。
だが、
「…………良いにおい」
「は?」
聴こえて来たのは、突拍子もない呟きである。確かに、今自分は料理をしていて、しかも舌が肥えている分そこらの家庭料理よりも美味しいのは自負している一弥だったが、もっと真剣な場面だと思っていた彼は、思い切り脱力した。
「良いにおいに決まってるわ。そんなことか」
「お腹すいてきたから……実感が」
「何の」
「生きてる」
「俺は幽霊も何も信じてへんから、君は生きとる。当たり前や」
あほなこと言うなと付け加えて、一弥は調理に専念した。嫌な思考が頭の中を占拠する。幽霊だの妖怪だの、一弥は目に見えないものを信じない。彼の職業が、理論の上に成り立っているものだからだという理由もあるし、彼自身が、非現実要素を拒んでいるという理由もあった。
一弥は炒めた鍋に水を入れ、材料を煮始めた。使っているのは圧力鍋である。この方が早く調理ができる上に、肉に火が通りやすい。蓋をしていても、生玉葱の青臭いにおいただよってきた。
「君は、天然か」
「良く言われますが、違います」
この切り返しは何だ。つかみどころのない雲のような、ふわふわと落ち付かない様相を身にまとっている。否、彼の本質がそのような雰囲気であるため、一弥は苛立たずには居られなかった。
いつもは舌が鈍るからと、調理中は吸わない煙草に火を付け、フィルターを噛み締める。肺に空気を送り込むと、吸い込んだ煙の分だけ余裕が生まれた。
「一弥さんは、目に見えないものが信じられない人ですか」
「目に見えないものしか信じない人や」
「それなら良かった」
「何が。その話の流れだと、君は幽霊か何かか。――――は。んな馬鹿な」
「幽霊ではないです、けど」
唇から煙草を話した一弥に、懐ゆっくりと口を開く。男のものにしては少し厚めの唇である。さくらんぼでもつまんだかのように、紅い、否、彼の瞳の方が随分と紅かった。
「人の、心が読めます」
「はあ」
「俺の能力、調べてみる気ありますよね」
紅い唇がきゅっと結ばれる。そこには、彼の年頃特有の、大人に対する侮蔑と懸念と畏怖が全てないまぜになって表れていた。
かすかに、唇の端が震えているところをみると、この少年は、帰る場所がないのだろう。大方、心が読めるという虚言を紡いで、すがりつこうとしているに違いないと、一弥は思いながら、煙草の火をもみ消した。
「帰る場所はありません。家には弟が一人。でも、戻るつもりはない」
「お前」
「あなたにすがりたいわけじゃない。俺がしたいのは、取引だ。」
「……本当に、読める」
「貴方が研究員だということも、趣味がヴァイオリンだということも、無類の酒好きだということも、聴きました」
「他には」
「お父さんのこと、とても嫌っている」
一弥は唖然として懐を見据えた。蓋をした圧力鍋の中で、スープが煮え立ってくる。本当はここで、香りづけのローレルを入れたいところなのだが、そんなことできるはずもなかった。
一弥の鼓膜のあたりで、湯気がしゅうしゅうと高い音を奏で始める。ワルツのようだと明後日なことを考えつつ、一弥は指一本動かせず、だがきっかり十秒後、は、と呼気を漏らした。
「は、ははは! ホントか!」
「そんなにおかしかったですか」
「可笑しいも何も。何や。最高の、」
「研究材料になります。だから、」
「分かった。ここに置いてやる。その代わり、隅々まで調べさせてもらうからな。ま、six scenceに理論があれば、の話やけど」
「良かった。そういう気味悪いものを嫌がる人じゃなくて」
「言うたやろ。俺は、目に見えるものしか、信じない」
一弥は目の前に居る、不可解かつ横柄極まりない広いものにほくそえんだ。この子どもは頭が良い。けれど、同じくらい馬鹿であるということを、一弥はせめてもの救いとした。