恋愛の理由(後篇)
恋愛小説は、書けなかった。
ウソだろうがホントウだろうが、とにかく、書けないものは書けなかった。
そう正直に打ち明けたからこそだろうか。
その2週間後に書き上げた、裸一貫で頂点まで上り詰めた少女ミュージシャンの短編(決して恋愛ではない)に、櫻子さんから、OKのサインが出たのだ。
あくまでも、編集者としての『OK』のサインであって、彼女にとっての『合格』のサインではないのだろうけれど。
『いいじゃない、私が今まで直し続けた甲斐があったってもんだわ』
「どうもありがとうございます」
櫻子さんからの電話があったとき、しゅんしゅんとヤカンのお湯が沸く小さな音が響く部屋の中で、私は携帯電話を片手にパソコンの前にいた。
私は実は実験結果のレポートの締め切りに追われていたときだった。
結局、私は工学部の人間としての麻生環と、小説家の卵の卵の卵としての麻生環を両立させていた。
そのことに対して、櫻子さんは何も言わなかった。
言わなかった、というより、『単位落として親御さんを泣かさないようにね』と意地悪く忠告されただけだった。
そして、世の中には、小説家であり医者である人だっているし、小説家であり悪党である人だっているから、専念する必要はないわよ、と付け足してくれた。
その一言で、私はだいぶ救われたと思う。
小説家=専門職、命を削って書かなければならない、という概念が、そのとき取り払われたのだ。
私も、小説は何よりも好きだ、書くことが好きだ、しかし、わざわざ勉強して入った工学部である、それを捨てろ、と言われても戸惑うだけなのだ。
専念するかしないか、ではなく、どれだけ丁寧な魂のこもったものが書けるかよ、と櫻子さんには常に口にされていた。
『だいぶ疲れた声してるわね、大丈夫?』
「実験のレポートを書いていたんです」
『大学生は大変ね。で、これ、ちょうど来月うちから出る雑誌の巻末に載せようと思うんだけど、いいかしら?』
「雑誌の、巻末!?」
私は、デリートキーを押しっぱなしにして、レポートの文章を全部消してしまうところだった。
それくらい明らかな動揺を示していた。
巻末である。
雑誌の、最後である。
つまりそれは、紅白歌合戦でいえば、オオトリということで、北島三郎とか石川さゆりとか、そんな大物らしい人たちが務めるようなところで。
「あの、私は石川さゆりじゃないんで」
『環ちゃん、何言ってるの?』
「…いえ、とにかく、巻末って、無名の人間を載せていいんですか?」
『うちのその雑誌、新人発掘雑誌なの。で、今回予定してた子の1人がいきなり土壇場でキャンセル出してきて、ちょうど空いてたわけ。ラッキーだったわね?』
「ラッキーなんでしょうか?」
『たくさんの人に見てもらえるチャンスよ?それと同時に、批判の的になる覚悟も必要になるけどね』
批判の的、か。
今まで批判されてきたことは受け流してきたけれど、今回は全部を受け止めきらなければならない。
改めて思う。
小説家なんてものは、因果な商売だ。
でも、どうしてだろう。
私は、少しも躊躇することなく『それくらいの覚悟できてます』とはっきりと、櫻子さんに言い切ってしまった。
山の沢出版が発行する季刊誌『雨色図書館』に、私の書いた小説が掲載されてから1ヵ月後。
その季刊誌の名前通り、さわさわと降り注ぐ雨の中、私は傘も差さずに大学の門の前でぼうっと立っていた。
今日は、雨が降るなんて天気予報で一言も言っていなかったからだ。
いつもなら入れているはずの折りたたみの傘も、ベランダに干したままでカバンの中には入っていないし、途中まで香苗に傘に入れてもらおうと思っていたら、彼女は早々に彼氏と一緒に帰ってしまった。
雨脚はだんだんと強くなってきた。
目の前を流れるように落ちていた雨粒は、強いラインを描いてアスファルトの地面を叩く。
少し肌寒く感じ、着てこなかったベッドに投げっぱなしのカーデガンを思い出して、後悔した。
大学の門の前にあるバス停の雨避けの下、乗りもしないバスを何台も見送りながら、雨の止むのを待っていた。
そんなときだった。
「環ちゃん」
やわらかく声をかけられ、私は声の方向を見る。
その向こうにいたのは、櫻子さんだった。
ジーパンを履いて、白いシャツの上に青色のジャケットを羽織っただけの櫻子さんだった。
会う約束は、どんどんと先延ばしになって、ちょうど昨日、明日は会えなくなったと言われた矢先の出来事だった。
「櫻子さん、どうしたんですか?」
彼女は、傘を差し出してくれた。
彼女のシャツと同じ色の、白色の傘。
彼女のシャツと同じ色なのに、粗末な安っぽい傘だった。
薄汚れた白色の傘。
その下で、彼女の顔色までもが薄汚れているように見えた。
薄汚れている原因は、見当たらないし、思い当たらない。
「急に、予定が空いてね。よかったら、カラオケでも行かない?」
心なしか、声が小さく聞こえる。
櫻子さんは、微笑んでいるような、でも、どこか泣いているようなそんな顔をしているように見えた。
長く少しずつ降り注ぐ雨のせいだろうか。
それとも、雨が奪っていった体温のせいだろうか。
ふと胸元を見るとそこはがら空きで、いつものティファニーは、見えなかった。
代わりに見えていたのは、櫻子さんの、今にも消えそうな肌だけだった。
カラオケと言われても、私は最初に3曲ほど歌ってからは、全く歌わなかった。
櫻子さんが歌うのを聴いて、たまに手拍子をするくらいだった。
彼女は捲し上げるように歌い続けていた。
怒りというか、ナマのむき出しになった感情そのものを何かに思い切りつぶけ続けるように歌い続けていた。
喉が枯れたら、カクテルを飲み干し、おもむろに次にはフライドポテトを口に一掴み放り込み、カクテルで流し込む。
次々にグラスは空になり、私は追加の飲み物を頼むフロントへの電話をかけるのにいそしんでいた。
いつも高い値段の店ばかりを巡っていたから、こんな安っぽいチェーン店のカクテルやジャンクフードなんて食べないんじゃないかと思っていた。
しかし彼女は、フライドポテトを食べ、フライドチキンを食べ、フライドオニオンを食べ、野菜スティックを食べ、焼きうどんをすする。
冷凍で悪い油で揚げられた薄焦げたポテトとチキンとオニオンを、少ししなびた野菜スティックを、作り方が悪かったのか焦げばかりの焼きうどんを。
彼女はものすごい勢いで食べ、安物の酒とリキュールで出来たカクテルを飲む。
クーラーが壊れてホコリとカビのにおいがして、リモコンのきかない機械が用意されたカラオケボックスで、私は櫻子さんの隣に座り、彼女を見ていた。
彼女は疲れてるのだろうか。
ところどころで、私はそう思った。
そして、トイレに立って数分後戻ってきた頃には、彼女はソファに寝そべったまま、すうすうと寝息を上げていた。
私には、櫻子さんの住んでいる場所はわからなかった。
だから、こうする以外には方法はないと思ったからこそ、私のアパートへと彼女をつれて帰った。
カラオケ店での支払いとアパートまでのタクシー代は痛い出費だったが、生まれて始めての原稿料とやらのおかげで、あまり懐は痛まなかった。
ウソだろうがホントウだろうが、とにかく、書けないものは書けなかった。
そう正直に打ち明けたからこそだろうか。
その2週間後に書き上げた、裸一貫で頂点まで上り詰めた少女ミュージシャンの短編(決して恋愛ではない)に、櫻子さんから、OKのサインが出たのだ。
あくまでも、編集者としての『OK』のサインであって、彼女にとっての『合格』のサインではないのだろうけれど。
『いいじゃない、私が今まで直し続けた甲斐があったってもんだわ』
「どうもありがとうございます」
櫻子さんからの電話があったとき、しゅんしゅんとヤカンのお湯が沸く小さな音が響く部屋の中で、私は携帯電話を片手にパソコンの前にいた。
私は実は実験結果のレポートの締め切りに追われていたときだった。
結局、私は工学部の人間としての麻生環と、小説家の卵の卵の卵としての麻生環を両立させていた。
そのことに対して、櫻子さんは何も言わなかった。
言わなかった、というより、『単位落として親御さんを泣かさないようにね』と意地悪く忠告されただけだった。
そして、世の中には、小説家であり医者である人だっているし、小説家であり悪党である人だっているから、専念する必要はないわよ、と付け足してくれた。
その一言で、私はだいぶ救われたと思う。
小説家=専門職、命を削って書かなければならない、という概念が、そのとき取り払われたのだ。
私も、小説は何よりも好きだ、書くことが好きだ、しかし、わざわざ勉強して入った工学部である、それを捨てろ、と言われても戸惑うだけなのだ。
専念するかしないか、ではなく、どれだけ丁寧な魂のこもったものが書けるかよ、と櫻子さんには常に口にされていた。
『だいぶ疲れた声してるわね、大丈夫?』
「実験のレポートを書いていたんです」
『大学生は大変ね。で、これ、ちょうど来月うちから出る雑誌の巻末に載せようと思うんだけど、いいかしら?』
「雑誌の、巻末!?」
私は、デリートキーを押しっぱなしにして、レポートの文章を全部消してしまうところだった。
それくらい明らかな動揺を示していた。
巻末である。
雑誌の、最後である。
つまりそれは、紅白歌合戦でいえば、オオトリということで、北島三郎とか石川さゆりとか、そんな大物らしい人たちが務めるようなところで。
「あの、私は石川さゆりじゃないんで」
『環ちゃん、何言ってるの?』
「…いえ、とにかく、巻末って、無名の人間を載せていいんですか?」
『うちのその雑誌、新人発掘雑誌なの。で、今回予定してた子の1人がいきなり土壇場でキャンセル出してきて、ちょうど空いてたわけ。ラッキーだったわね?』
「ラッキーなんでしょうか?」
『たくさんの人に見てもらえるチャンスよ?それと同時に、批判の的になる覚悟も必要になるけどね』
批判の的、か。
今まで批判されてきたことは受け流してきたけれど、今回は全部を受け止めきらなければならない。
改めて思う。
小説家なんてものは、因果な商売だ。
でも、どうしてだろう。
私は、少しも躊躇することなく『それくらいの覚悟できてます』とはっきりと、櫻子さんに言い切ってしまった。
山の沢出版が発行する季刊誌『雨色図書館』に、私の書いた小説が掲載されてから1ヵ月後。
その季刊誌の名前通り、さわさわと降り注ぐ雨の中、私は傘も差さずに大学の門の前でぼうっと立っていた。
今日は、雨が降るなんて天気予報で一言も言っていなかったからだ。
いつもなら入れているはずの折りたたみの傘も、ベランダに干したままでカバンの中には入っていないし、途中まで香苗に傘に入れてもらおうと思っていたら、彼女は早々に彼氏と一緒に帰ってしまった。
雨脚はだんだんと強くなってきた。
目の前を流れるように落ちていた雨粒は、強いラインを描いてアスファルトの地面を叩く。
少し肌寒く感じ、着てこなかったベッドに投げっぱなしのカーデガンを思い出して、後悔した。
大学の門の前にあるバス停の雨避けの下、乗りもしないバスを何台も見送りながら、雨の止むのを待っていた。
そんなときだった。
「環ちゃん」
やわらかく声をかけられ、私は声の方向を見る。
その向こうにいたのは、櫻子さんだった。
ジーパンを履いて、白いシャツの上に青色のジャケットを羽織っただけの櫻子さんだった。
会う約束は、どんどんと先延ばしになって、ちょうど昨日、明日は会えなくなったと言われた矢先の出来事だった。
「櫻子さん、どうしたんですか?」
彼女は、傘を差し出してくれた。
彼女のシャツと同じ色の、白色の傘。
彼女のシャツと同じ色なのに、粗末な安っぽい傘だった。
薄汚れた白色の傘。
その下で、彼女の顔色までもが薄汚れているように見えた。
薄汚れている原因は、見当たらないし、思い当たらない。
「急に、予定が空いてね。よかったら、カラオケでも行かない?」
心なしか、声が小さく聞こえる。
櫻子さんは、微笑んでいるような、でも、どこか泣いているようなそんな顔をしているように見えた。
長く少しずつ降り注ぐ雨のせいだろうか。
それとも、雨が奪っていった体温のせいだろうか。
ふと胸元を見るとそこはがら空きで、いつものティファニーは、見えなかった。
代わりに見えていたのは、櫻子さんの、今にも消えそうな肌だけだった。
カラオケと言われても、私は最初に3曲ほど歌ってからは、全く歌わなかった。
櫻子さんが歌うのを聴いて、たまに手拍子をするくらいだった。
彼女は捲し上げるように歌い続けていた。
怒りというか、ナマのむき出しになった感情そのものを何かに思い切りつぶけ続けるように歌い続けていた。
喉が枯れたら、カクテルを飲み干し、おもむろに次にはフライドポテトを口に一掴み放り込み、カクテルで流し込む。
次々にグラスは空になり、私は追加の飲み物を頼むフロントへの電話をかけるのにいそしんでいた。
いつも高い値段の店ばかりを巡っていたから、こんな安っぽいチェーン店のカクテルやジャンクフードなんて食べないんじゃないかと思っていた。
しかし彼女は、フライドポテトを食べ、フライドチキンを食べ、フライドオニオンを食べ、野菜スティックを食べ、焼きうどんをすする。
冷凍で悪い油で揚げられた薄焦げたポテトとチキンとオニオンを、少ししなびた野菜スティックを、作り方が悪かったのか焦げばかりの焼きうどんを。
彼女はものすごい勢いで食べ、安物の酒とリキュールで出来たカクテルを飲む。
クーラーが壊れてホコリとカビのにおいがして、リモコンのきかない機械が用意されたカラオケボックスで、私は櫻子さんの隣に座り、彼女を見ていた。
彼女は疲れてるのだろうか。
ところどころで、私はそう思った。
そして、トイレに立って数分後戻ってきた頃には、彼女はソファに寝そべったまま、すうすうと寝息を上げていた。
私には、櫻子さんの住んでいる場所はわからなかった。
だから、こうする以外には方法はないと思ったからこそ、私のアパートへと彼女をつれて帰った。
カラオケ店での支払いとアパートまでのタクシー代は痛い出費だったが、生まれて始めての原稿料とやらのおかげで、あまり懐は痛まなかった。