月のあなた 下(1/4)
崩壊
「きゃあああああ!」
三石は声を限りに叫ぶと、奥の部屋のドアまで逃げ帰る。
「…先生!」
蜜柑は数秒呆然としていたが、ほとんど床を這いずるようにしてこちらに向かってきていた司書の方へと駆けつける。
蜜柑がその手を取っても、司書は、強く咳き込み続けていた。
「…ズ」
「先生?」
「ズナ…ズナぁドドニアイッレ」
「先生、何を言ってるんですか――三石さん!」
「はあ?!」
蜜柑が振り返って呼びかけると、整理室の内側から覗いていた三石は怒鳴り返してきた。
一瞬怒気に染まった顔は、だがすぐに温和で不安そうな顔に変わる。
「…こ、こほっ。何?」
蜜柑はひどい違和感を胸の内に持ったが、すぐにしまい込んで言った。
「手伝って! 先生、気分が悪くなったみたいで――立てないみたいなの」
その瞬間の三石の表情は、まるで口を無理矢理閉じた般若の面であった。
「――」
直感は、この時確かにアラームを鳴らしていた。
だが蜜柑は、決めていた言葉の方を先に出していた。
そしてそれを言ったことによって、自分を縛った。
「お願い」
三石はにこりと微笑んだ。
それは、クラスで見せるいつもの笑顔だった。
「わかった! …さっき整理室の中に車いすがあったから、とってくるね。 大甘さんは先生見てて!」
「…うん!」
三石は整理室の中へ姿を消した。
誰も居なくなったドア口を見た瞬間、蜜柑の中のアラームは最大になる。
(なんでいま、あの人笑ったの?)
気がつき、背筋が凍り付いた。
(おかしいよ。こんな状況で笑うのなんておかしいよ。)
さっきまでおろおろしてた人が――
ぴっ。がちゃり――ばたん。
電子音とドアが開く音――閉められる音。それから、誰かが走ってくる音。
だがその走っている誰かは、ガラスの向こうにいた。
「三石さん! ちょっと、どうして?」
どうしても何もなかった。
彼女は逃げようとしているんじゃないか。自分たちをおいて。
先生が足手まといになったからだ。
でもどうして、わたしまでおいてくの?
「三石さん!」
司書の手を離し、蜜柑が自動ドアまで駆けつけたとき、ちょうど三石はその前で立ち止まっていた。
「み――ひっ?」
蜜柑がガラスのすぐ向かいに顔を近づけたとき、どん、と両手で強くガラスをたたいてくる。
「な、何を」
三石は、ただとても、愉快そうに笑っていた。
「あたしさあー」
それは、低く、ぞんざいな、聞いたことのない誰かの声だった。
「何でかわかんないけど、わかるんだよね。あんたたちコレでオワリだって」
そして右の手のひらをもう一度ガラスに押しつける。
ぎぎ、と金属のこすれる音がした。
それは、自動ドアの鍵を含む、おそらく図書館のすべての扉を開閉するキーホルダー。
「あ」
取ったのか。部屋の内側に先生がかけておいたものを。
「ネ…エ…」
そのとき、後ろで誰かが立ち上がる気配がした。
「先生」
司書はまっすぐ危なげなく、ゆっくり歩いてくる。
蜜柑はその土色の顔を見て反射的に、足下に落ちていたクラッチを拾っていた。
背中の後ろで、はじけるように三石が笑い出した。
腹を抱え、甲高い声で、これ以上楽しいことはないとでも言うように。
蜜柑は危機が迫っているのを知りながらも、もう一度振り返らずにはいられなかった。
「こんな! こんな! ひどいよ、わたし信じたのに! あなたを」
「大甘さん、あのね?」
一瞬、声がいつもの甘ったるいものに戻った。
そして、首をかしげ舌を出しながら、下から覗き込むような仕草をする。
「そんなやさしいセカイねえよばぁーか。どこに住んでんだよ。地球にもどってくれば?」
蜜柑は、呼吸が止まった。
「きっと――こほっ、アンタも伝染されんだよ。それ。そんでさ、まだ全然警察とか来てないから? ここでゲームオーバーだから――やっぱウザすぎたんじゃねアンタ? ユメ見過ぎ。マジで、北中のやつらに同情するわ!」
「そ…っ!」
気づくとすぐ後ろにもう、司書が立っていた。
「いや、いやああああ!」
三石は笑顔で手を振った。
「先生のお相手よろしくねー? バイバイ!」
*
どこに向かっているのかも分からないまま走りながら、三石は高まっていた。
最高の気分だ。
部屋(クラス)でじっくりするのもいいけど、こうやって滅多にないTPOで一気にやっちゃうのもイイ!
(気持ちいー!)
支配して破壊⇒さいこうにイイね!!
屋上で吸い込んだ砂の違和感が体中に広がっていたが、そんなことさえ気にならない。
「気持ちいいよー! あははっ! ごほっ、ごほっ。あはははははははははは」
(月のあなた 下 2/4に続く)
作品名:月のあなた 下(1/4) 作家名:熾(おき)