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プラタナス並木の道から

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 リュックを肩にかけ、まつりと同系色のグレーのダッフルコートを着ている。並んでいるとペアルックのようだ。
「いいの、先に行ってよ!」
「なんだよ、可愛くない女」
 萩原紀は言い捨てて走っていった。
 校門付近には学生の姿はなく、走って教室まで行かないと遅刻してしまう時間だったのだが、まつりはどうしても萩原紀と一緒に教室へ入りたくなかった。
 矢萩と萩原、つなげて『矢萩原(やはぎわら)』とあだ名され、ことあるごとにクラスメイトに冷やかされていた。それに、瀬川要と同じ『かなめ』という名前。漢字こそ違うが、大切な要ちゃんと同じ名前だ。『かなめ』と誰かが呼ぶたびにどきりとして反応してしまう。学校に瀬川要がいるはずもないのに。性格も物静かな要ちゃんとは正反対で、萩原紀はスキー部に所属し、体育会系だ。萩原紀が嫌な性格だとか、生理的に受け付けない外見だとか、そういうことではないのだが、名前が同じというだけでいちいち気に障る。その紛らわしさにまつりは苛々させられた。
 理不尽な感情なのだが、矢萩まつりにとって、とにかく、萩原紀の存在は許せないのだ。
 瀬川要との朝の貴重なひと時を楽しく過ごせなかった矢萩まつりは、一日中憂鬱だった。

  噂
「お向かいのお兄ちゃん、婚約が決まったって」
 その日、夕食の食卓で母が衝撃的な発言をしたのだった。
 まつりはおかげでご飯を喉に詰らせてしまった。
「お、お向かいのって、要お兄ちゃんのこと?」
「ええ、そうよ」
「だって、まだ二十三歳でしょ? それに就職して一年しか経っていないのに」
 ――嘘だ、嘘だ。きっと何かの間違い。朝、要ちゃんはそんなことは一言も言っていなかった。お母さんはまたどこかで近所の噂話を聞き間違えているに決まっている。前にも裏の家のおじいさんが亡くなったって慌ててお悔やみに行ったら、老犬が亡くなったのと聞き間違えていて大恥かいたことがあったもの。
 矢萩まつりは、母親の言葉を必死で否定した。
「だって、瀬川さんちの隣の奥さんが言っていたのよ。早くにいい人が見つかって良かったじゃないの。近頃は独身の方が気楽で自由だからっていつまでも結婚しない人が多いって言うでしょ? まつりもそんなことにならないでね。お母さんはまつりが矢萩の名を継いでくれるのが夢なんだから。そして、まつりの可愛い赤ちゃんを抱っこするの」
「よしてよ。夢も希望もないことを言わないで」
「あら、赤ちゃんほしくないの?」
 ――母の話は飛躍しすぎる。その前に就職があるでしょう? 私にだって将来の夢があるのよ。
本当はそう反論したかったのだが、実際、まつり自身、どんな仕事に就きたいのかまったく見当がつかなかった。
――もううんざり。ことあるごとに、『矢萩』の名を継げというんだもの。
まつりは親戚に一度も会ったことはなかった。それに、一般の家庭となんら変わった所もなく、別段、代々続くような由緒ある血筋とは思えなかった。『矢萩』は母方の姓だ。父は婿入りしたことになる。
夫婦別姓も珍しくない昨今ではあるが、好んで妻の姓を名乗る夫はそういないだろう。そうまでして守る価値のある名なのか。どういう理由があるにしても、名を継げと子供にまで押し付けられては迷惑だ。だが、まつりは母の悲しい顔を見たくなくて、いつものことだからと自分を納得させ、反論せずに黙ってご飯を口にした。
 出張で留守がちな父。食事は大抵、母と二人で摂ることになる。母は食事中、静かなことが罪悪だとでも考えているのか始終話している。
 小学生の頃はそれが嬉しかった。世間話が好きで賑やかな母。でもさすがに高校生となった今、この食卓は煩わしいだけになっていた。
 ――これも反抗期なのかな。
 まつりは自分自身を冷静にそう分析して苦笑した。
「まつり、何がおかしいの?」
「別に、ちょっとね」
「変な子」
 ご飯を口に運びながら、肩をすくめて母が言った。
 矢萩まつりは要ちゃんの婚約話を、無意識のうちに頭の奥に葬っていた。

日曜日。朝十時を過ぎても冷え込みは緩まなかった。
 矢萩まつりはいつものように自室の窓から、お向かいの様子をそっと伺っていた。
瀬川要が出てきてワゴン車のエンジンをかけ、車の雪を下ろし始めた。十五分ほどして、両親と一緒に大学生になる妹が、よそ行きのコートを着て外に出てきた。おばあちゃんまで訪問着を着ている。
 お向かいの瀬川家は、家族揃って出掛けるようだった。
 ――こんな時間からどこへ行くのだろう。要ちゃんまで正装している。
まつりはいてもたってもいられなくなり、ジャンバーをはおり、手袋をはめて外へ出た。
「お早うございます」
 まつりは家の前のあまり積もっていない、数センチの雪を除雪しながら、瀬川家に挨拶をした。
「お早う、まつりちゃん」
 瀬川家からそれぞれ挨拶が返ってきたが、要ちゃんはこちらを一瞥しただけで、黙々と車の雪下ろしをしている。
「まつりちゃん。えらいねえ、雪はねのお手伝いかい」
 瀬川要の祖母がまつりに声をかけた。まつりが小さい頃、よく遊んでくれたおばあちゃんは病院へ車で通う以外は外に出ることはなく、久しぶりに顔を合わせたのだった。
 足が弱り、去年は心臓を悪くして数ヶ月入院していたと聞いていたが、暫く見ないうちにおばあちゃんの腰は曲がり、杖を突くようになっていた。もう八十歳後半になるだろうか。まつりが記憶していた元気なおばあちゃんとは別人のようだった。頬が痩せて皺も深くなった顔に弱々しい笑みを浮かべながら、よろよろと杖を突いてこちらへ近づいてきた。
 まつりはおばあちゃんのことなど、すっかり気にも留めなくなっていた。瀬川要が自分のことを全く気にも留めなくなったのと同じように、自分もまた、おばあちゃんをすっかり忘れ去っていたのだ。
 小学二年生の時、近所の坂道で自転車ごと転倒し、脛に大きな切り傷を負ったことがあった。血はなかなか止まらず、どくどくと流れて靴も血まみれになった。べそをかきながらやっとの思いで自転車を押して家にたどり着いたのだが、母は丁度買い物に出掛けていて、家には誰もいなかったのだ。
もしかしたら、このまま死んでしまうのではないかとさえ思った。不安に駆られ、まつりが家の前で号泣していると、瀬川のおばあちゃんが駆けつけてきてタオルで足を縛り、近所の病院までおんぶして連れて行ってくれた。
「大丈夫、大丈夫。直ぐ痛くなくなるから。まつりちゃんは強いねえ」と、まつりを背負って歩きながら、病院につくまで何度も優しく励ましてくれたのを、今でもはっきりと覚えている。その時、傷は五針縫う深さだった。帰宅した母はおばあちゃんから足の傷を縫合したと電話口で連絡を受けて病院に駆けつけたのだが、動揺して涙ぐんでいた。母はおばあちゃんに何度も頭を下げてお礼を言っていた。    
九年ほど前のことだから、今思えば、おばあちゃんはその頃、もう七十歳後半だったはずだ。心臓の弱いおばあちゃんが、息を切らしながら自分を背負って病院まで運んでくれたのだ。
――あんなに優しくしてくれたおばあちゃんなのに。
作品名:プラタナス並木の道から 作家名:asami