月のあなた 上(5/5)
雪の花
彼は脇にあった電柱によりかかった。
やはり足りない。命をうばうところまで吸い上げない限り、見知らぬ土地では直ぐに消耗してしまう。
一体何が自分を留めているのだろう。
多神教徒、それも耕作者の土地で、氏子の命を奪えば産土が黙っていないのは分かっている。だが、それだけでは無い気もした。
もう人を殺したくはなかった。
主は誠に良く許し給う方だから。
罪の無い人間を殺す事は、全人類を殺す事と同じだから。
仕方なく動物たちを使った。
大人しくその場所のことを教えればよし。あくまで口を割らないものには、砂を一粒飲み込ませる。その砂を通じ、何度もこちらの思念を伝える。改悛せぬのなら、砂はガラスの刃になって宿主を破壊し始める。宿主は帰巣する。その命が流れおちていく先に、この土地の精気の流れを司るものがあるはずだ。
そうして口を割らせ、命の流れを辿った先に、この街まで流れ着いた。
只管地面だけを見て、匂いを嗅ぎ、落ちた血が指し示す方向を辿ってきた。
誰とも目を合わせず、生活も見ない。見たくもない。
だがふと、道が急に細かな白い欠片で埋め尽くされるようになって、彼は景色に意識を戻した。
上を見上げると、手がとどきそうなほど近くに雲が降りて来ている。
雲は樹に繋がっており、ぱらぱらと白い欠片を道に零し、それが道に敷き詰められ、空と地面はまっしろで、すこし桃色に染まっている。
(すると――これが雪か。)
彼はようやく柱から身を起こすと、夢遊病者の様に彷徨した。
さらさらと、白い欠片が目に飛び込んでくる。
どこまでいっても、雲から降り注いでくる。
これが、吹雪というものか。
では雪とは暖かく、優しいものなのだな。
思った瞬間に前のめりに倒れていた。
身体の芯に激痛が走った。人形が保てない。だれかから奪ったコートが体から脱げた。弱々しいちいさな咳が出た。目の前で、雪の欠片が少し舞った。
(ここは、死ぬには良い土地だ。)
雪は口に入れれば溶けると聴く。幽かに甘酸っぱい良い匂いがする。
彼は舌をだらりと垂らして、末期の水を飲もうとした。
だがその瞬間思い出したのは、違うものの味だった。
(パティマ。サッタ。)
こどもたち。
彼は、目を見開いた。
「あー、はい。そうです。捨て犬ですよ…」
意識がはっきりと戻って来た時、彼は自分が横たわっているのが花びらを敷き詰めた道路であること、また、街の衛兵らしき男に捕縛されそうになっていることを自覚した。
「もう死んでます。コートが掛けてありますけどね…え? まじっすかあ? 保健所の仕事でしょ。ああ…連続愛護動物ごろしの手がかり…了解しました」
衛兵は例の小さな箱で他の衛兵と連絡を取っているのだろう。
すると、応援が来る可能性もあった。
幸い、今この道には自分とこの衛兵一人だ。
*
「こまるんだよなぁ…。…じゃあま、先ず写真をとって…な!」
カメラを取り出そうとしていた警官は、突然目の前に起き上がったコートの男に驚いた。
「犬だと?」
外国人だろうか。肌が浅黒く、顔は髭で覆われている。だが言葉は流暢だ。
「貴様、犬と人間の見分けもつかないのか」
「申し訳ありません! お、お身体はだいじょうぶでしょうか」
警官の頭は半自動的に謝罪の言葉を並べながらも、混乱を来たしている。
あれ、自分が見たのは犬だったよな? ちがったっけ?
「自分が犬に成り下がったので、人間が犬に見えるようになったのだろう」
「…は?」
コートの男の右手が、突然警官の顔面を覆った。
「口を開けろ」
身体が宙に吊り下げられる。
「ご…が…」
顎を締め付けられる痛みで、口が開く。その中に、砂が入り込んできた。それはさらさらと喉から肺へ。肺から、心臓へ。
「…! …?」
警官は両手で男の手を掴み、足をばたつかせるが、男の腕は微動だにしない。
「何故だ?」
「……! ――!!」
「何故お前たちの土地が平和で豊かなのだ。何故あの子たちが死ななくてはならなかったんだ」
*
警官の手がだらりと垂れさがり、足もばたつかなくなった。
「主のなさることには、全て理由がお有りなのだ。主は誠に良くお考えになるお方。主は私をここに遣わされた。奪われた物を取り戻し、世界を公平にするために」
血が砂に浸みわたる。力が戻ってくる。
完全に相手の息の根と心臓の鼓動が止まってしまう前に、彼は警官を放した。
白目を剥いた警官の身体が、白い花びらの床にどさりと横たわる。
男は空を仰ぐと、
「ほう、近いな」
犬の様に鼻を動かして何かをかぎ取った。
道の角を曲がろうとする時に、だれかが「救急車!」と後ろの方で叫んでいた。
(※月のあなた 下 へ続く)
作品名:月のあなた 上(5/5) 作家名:熾(おき)