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熾(おき)
熾(おき)
novelistID. 55931
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月のあなた 上(1/5)

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兄妹の買い物



 水凪祇居(みななぎ しい)は、桜垣駅前の花屋の前を通るアスファルトの道の先を見つめた。

「……?」

 咄嗟にイヤホンを外して目を凝らすが、ところどころ桜を佇ませる、朝の静かな車道に過ぎない。
 そのまま目を凝らすが、何かが来る気配はなかった。

「…いちゃん」
(変な話だ。)
 なぜ振り向いたかが、自分でも分からない事に気付いて、首を振り、花屋の方に向き直る。
 と、

「しいちゃん!」

 凛の蒼黒い大きな瞳が、ぶつかりそうなくらい近くに在った。

「わっ」
 思わず叫んで後ずさる。

 傍に居た通行人が振り返り、少し離れた場所から祇居の姿を盗み見ていたらしい男などは、一緒に驚いたような反応を示した。
 それらの男は、祇居が気づいてそちらに目をやると、一様に立ちあがったり、別のあらぬ方向を見たりしたのですぐに分かった。

(…だから袴は嫌だったんだ。)

 思いながらも、周囲への注意を失っていたことを悔いた。
「あの、お客さん、どうしましたか」
 足下まで花バケツに埋め尽くされた廊下の奥から、店員が現れて訊いた。
「い、いえ」
 祇居は慌てて笑顔を作ると、首を振った。

「そうですか」
 初老の婦人店員は、人のいい笑顔を浮かべるとすぐに納得してみせた。
「決まりました?」
「あ、まだ…」
「そうですか。わたしちょっと奥に居ますから、呼んでください」
 店員は再び店の奥へ姿を消す。

「ふう」

 とりあえず息を整えた祇居は、すぐイヤホンを嵌め直し、スピーカーを右手で摘まんで少し持ち上げるようにしてから、下から見上げて来ている妹へ話しかけた。

「凛、いきなり大声出さないで」

 祇居の腹辺りまでしか背の無い凛は、円いほっぺを更に膨らませた。

「だって、どれだけよんでもしいちゃんが、ふりむいてくれないんだもの」
「だからって――」

 祇居は言いかけ、それが妹に取ってどういう意味を持つのか、直ぐに思い至って言い直した。

「うん、ごめん」

 見上げて来ていたおかっぱの下のどんぐり眼が、嬉しそうに瞬きをした。
 祇居は周囲を見渡して、特に誰も自分を注視していないのを確認すると、しゃがんで凛の頭を撫でる。

「それで、どの花がいいか決まった?」
「うん、これ!」
 凛が指さした先には、光を帯びた百合があった。

  *

「ほら、凛のだよ」

 買い求めた白い花を目の前に差し出すと、妹はうっとりとして、その一輪の周りを手で囲んでいた。

「…もういいかい?」

 いつまでもそうさせて居させたかったが、入学式の時間があった。

「次のバスに乗らなくちゃ」

 祇居が花を鞄に仕舞おうとすると、凛は
「あ」
 と名残惜しそうに声を出した。

「大丈夫だよ。茎が脱脂綿でくるんであるし、あとでお部屋に飾ろ?」

 凛は、しばらく祇居の手にある花を見つめていたが、やがて首を振った。
「ううん。いい。それ、しいちゃんにあげる」

「え?」
「しいちゃん、にゅうがくしきでしょ。りんのだから、しいちゃんにプレゼント」

 妹の思いやりに、祇居は微笑んだ。 

「ありがとう」
「しいちゃん、それ、かみにさして」

「髪?」

 祇居はやや表情を引きつらせながら、頭の後ろで結わえられている長い黒髪を触った。

「うん、これのね、このあたり」
「…はいはい」

 祇居はもう一度しゃがむと、妹の小さな手に誘導されるままに、髪をまとめた部分に花を差した。そばを通りがかったサラリーマン風の男が、一瞬はっと息を呑んで、立ち止まる。

「さあ、乗り換えのバスに行かないと」

 祇居は恥ずかしさを紛らせるように、わざと口に出して立ち上がった。


作品名:月のあなた 上(1/5) 作家名:熾(おき)