センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <前編>
気付いたら、和歌子の目元から涙がぽろぽろこぼれ落ちていた。
涙って、悲しい時しか出ないと思ってた。安心して泣く事もあるんすね、センパイ。アタシ、生まれて初めて知りました。
驚きとともに始まった倫との同居生活は、長年和歌子を縛っていた頑な何かを、ゆっくり、でも確実に崩していった。
♢ ♢ ♢
朝食を作り倫を送り出し、後片付けと掃除洗濯、天気のいい日は布団を干し、スマホで特売情報をチェックして近所のスーパーをハシゴ、夕食を作り倫の帰りを待つ。
そんな生活を始めて1ヶ月余りが経った、7月のある日。
「何かアタシ主婦みてー」
洗濯物を畳みながら無意識に出た言葉に、自分自身驚いた。誠也と暮らしていた時もほぼ同じ事をしていたはずなのに、そう思った事など一度もなかったから。
「あ、ボタン取れそう」
倫の作業着の胸ポケットのボタンが首の皮一枚状態になっているのに気付いて、裁縫箱を探す。膝上に作業着を広げて、鼻歌まじりにチクチクチク。ほつれないように、頑丈に、丁寧に。
そしてふと思った。親父や誠也の、アタシこんな丁寧に縫い付けてたっけ。しかも鼻歌歌いながら。見ても気付かなかった振りすらしたことあったんじゃない。
和歌子ははたと作業の手を止めて考えた。
これは心境の変化なのか、それとも何か別の感情のなせる業なのか。
「……わっかんないや」
深く考えるのは得意じゃない。和歌子はぶるぶる頭を振ると、目下の課題であるボタン付けに意識を戻した。
夕方のタイムセールで本物の主婦達との熾烈な争奪戦を勝ち抜き、鶏もも肉を大量にゲットできた。
倫の大好物は唐揚げだ。
しょうがは先週買ったのを冷凍してあるからそれすり下ろして、にんにくはチューブでいっか。センパイはパンチのある味が好きだから、醤油は多めに、酒を忘れず。冷蔵庫で30分くらい寝かせて……。
和歌子は頭の中で料理の段取りを組みながら、弾む足取りでアパートへの道を急いだ。そして最後の曲がり角ーー左に進めばアパート、右に進めば河川敷ーーに差し掛かった時、どうしたものか急に寄り道をしてみたくなり、右に足を向けた。
土手に続く階段を上ると、一気に視界が開けた。ベランダから何度も眺めた事はあるが、足を踏み入れたのは初めてだった。
アスファルトで舗装された遊歩道に、桜の木だろうか、そこそこ立派な木が青々と葉を繁らせ、等間隔に植わっている。それなりに豊富な水量をたたえた川がゆったり流れ、まだ夕暮れには遠い時間だが、川を渡る風には何となく夕方の気配が含まれていた。行き交う人はどこかスローモーションで、ここだけ時間がゆっくり流れているような、不思議な感覚を和歌子は覚えた。
河川敷からアパートの方を見てみた。安っぽい青ペンキで塗り立てたぼろアパートの、2階の一番端、203号室。
センパイとアタシの……部屋。
ベランダの手すりに寄りかかり、セーラムの煙をたなびかせる倫の姿を想像する。なぜだろう、心臓がぎゅっと痛んで、目の奥が熱くなった。
いつまでこの生活続けられるんだろ。最近、そんな思いがふと頭をよぎる瞬間がある。だがそんな時、和歌子は決まって思考をシャットアウトしてしまう。今も、そうだった。
物事を深く考える事を無意識に避けてきた。深く考えてしまったら、自分の人生がいかに絶望に彩られているかを思い知ってしまうから。きっとやり切れなさに打ちのめされてしまうから。
浅はかさは、和歌子なりの防衛本能だった。
和歌子自身は気付いていないが。
明日センパイ誘って散歩してみよう。代わりにそんなことを考える。
日のあたる河川敷を、倫と肩を並べて歩く。ヤンキーの休日とは思えない健全な様子。気恥ずかしいけど嫌じゃない。嫌じゃないどころか……。口元が自然と緩む。
「……さ、帰って唐揚げ唐揚げ!」
和歌子はスーパーの袋を前後に揺らしながら、土手の斜面を駆け下りた。
♢ ♢ ♢
「ふんふんふんふふっふ~♪ ふんふんふんふふっふ~♪」
子供の頃流行ったアイドルグループの歌を鼻歌に、アパートの外階段をリズムに合わせて踏みしめる。唐揚げを前にした時の倫の表情や反応をあれこれ思い描きながら。
センパイきっと喜んでくれる。きっと「うまい」って言ってくれる。最高においしいの作るぞ!
だが、階段を上がり切り2、3歩歩いたところで、鼻歌はぶつりと途切れた。体が瞬時に凍り付き頭の中で倫の顔がぐにゃりと歪み、たちまち消えた。
203号室の前で、黒いTシャツにニット帽、二の腕に青い入れ墨をした長身の男が、ポケットに手を突っ込んだ姿勢で立っていた。
「よお、久しぶり。ずいぶんご機嫌じゃねーか」
ニヤニヤ笑いながら、長身の男ーー誠也が、ゆっくり和歌子に近付いてくる。
和歌子の全身は硬直し、すぐに弛緩した。指先からスーパーの袋が滑り落ち、ぐしゃりと音を立てた。
あ、卵割れちゃった。でも卵焼きにすればいっか。センパイ卵も好きだから、明日は特別に3個使って卵焼きを......。
遠のく意識の片隅で、呑気にそんな事を考えた。
これは目の前の現実を受け入れたくないと抗う、脳の妄想であり願望だった。
作品名:センパイんとこ住まわせてもらっていーっすか? <前編> 作家名:サニーサイドアップ