ほんとうの日記
1
《略奪愛って言葉は悪いけど、こうやってふたりが出会ったのは「縁」であって、そういうめぐりあわせだったんだと思う。その時にどちらかにすでに相手がいる場合もあると思うし、それが障害になることもあるけれど、それを乗り越えることがふたりの運命だったんだと思うの。
時に人は結婚している相手を好きになったり、恋人のいる人を好きになったりすることもある。でもそれは相手に奥さんがいるから好きになったりした訳じゃなくて、好きになった人がたまたまその人だっただけ。
誰だって他人の物を奪いたくない。出来れば誰の心も傷つけたくない。だけどわたしたちは、初めからめぐりあう運命にあった。ただその時期が遅かっただけ。
だから、彼女さんには悪いけど、わたしは後ろめたくなんかない。
その障害を乗り越えた先に、わたしたちのほんとうのしあわせが待っているから。》
朝方から男の携帯が無言で振動し続けている。
男は疲れ果てて眠り、わたしは彼の右手の運命線の伸び方を調べていた。着信した携帯を見ると女の人の名前、きっと彼女さんだろう。せっぱつまったように着信を繰り返すその携帯の向こうに女の焦り顔が見える。どうして女は自分の男が浮気をするとすぐに気がつくのだろう。
眠り続ける男のかわりにわたしがその着信に出る。
「彼ならまだ寝てます。」女は驚いたようだった。
「あなた、誰?」
昨日の夜から一緒なんです、彼の部屋にいます。わたしがそう言うとしばらくの沈黙の後、向こうから切られた。
男はまだ起きない。昨日たくさんした、でも、もっとしたい。今までの分までもっとして欲しい。
携帯の電源を切る。画面が暗くなる。カーテンの隙間からわずかに差し込む光以外、わたしたちのベッドを照らすものはなにもない。
わたしは熟睡する男の横にもぐりこみ、男の足を太ももで挟むようにして、自分の陰毛を擦り付ける。人間の肉のあたたかさ。男の胸に顔をうずめると、彼とは違う匂いがした。名前は同じなのに、顔も、声も、息の匂いも、毛の生え方も、ぜんぶ違う。この男は彼と違う人間だけど、これがわたしのあたらしい運命。早くこうしたくて、ずっと待ってたから、これ以上待てなかった。
昨日の合コンでこの男の名前を聞いた時、運命を感じた。学生の時好きだった彼と同じ名前だった。男のほうからから誘ってきたけど、こっちから誘いやすいようにしていた。
そんな昨日のわたしは他の子からしたらかなりヒンシュクだったと思う。けど、別に気にしない。そんな事気にしていたら、目の前のしあわせが逃げていってしまう。
あなたたちはこの前までのわたし。怖がって、周りを気にして様子をうかがってるうちに、大事なものが誰かに取られていっちゃうのに、指をくわえて見ているだけ。
この男は彼と同じ名前だった。わたしの最初の人と。彼はもう、わたしの名前も覚えていないかもしれないけど、わたしは忘れてない。彼と出会ったことから始まった、わたしの日記。
運命が、あの時からやりなおせって言ってる。初めて彼と会ったあの時から、もう一度やりなおせって言っている。
これを逃したら一生後悔すると思った。
わたしにも眠気がやってくる。こんなに満足な気持ちで眠れるのなんて、何年ぶりだろう。
眠りに落ちる前に思った。
日記に書かなくちゃ、この男の事。
わたしは今、自分が手に入れた物、やりとげた事を日記に集めている。
彼は大学のサークルの友達だった。ゼミもわたしと一緒で、お互いどこに行っても顔を合わせるから、よく話すようになった。偶然にも田舎も隣の県だったし、気も合った。東京に出てきたばかりで心細かったわたしは彼に、他の友達とは違う親しみを感じていた。
彼はよくみんなの前で、くされ縁、ってわたしたちのことを言ったけど、わたしは、嫌そうな顔をしてそんな事を言う彼のことが、ちょっと誇らしかった。彼は、今まで彼氏もいたことがなかった田舎の女子校出身のわたしに出来た、初めての男の子の友達だった。
入学当時から親しかったから、彼とわたしは恋人同士だと勘違いされることがあった。でも、彼にはずっと付き合ってる彼女がいたし、わたしは彼のこと、キライじゃなかったけど、付き合うとかの対象じゃないって思っていた。彼とわたしでは明らかに不釣り合いだった。彼はサークルの中でも目立つほうで、女の子がいつもそばにいる、彼にあこがれてサークルに入ってくる子もいたりする位だった。背も高いし、かっこいいし、雰囲気もさわやかだから、どんな女の子にもモテると思うけど、その分、いろんな子と付き合ってるって噂もあって、どっちかというと地味なグループのわたしの友達たちには、チャラチャラしてるって不評だった。確かに女の子にはだらしないかなって思うこともあったけど、どこか憎めない所があって、彼のこと悪く言う子たちだって話しかけられればうれしそうにしていた。パッと見は軽そうで何にも考えてなさそうに見えるけど、ほんとは意外と気がつくタイプで、後輩の面倒見もいいのに、第一印象で誤解されやすいから、もっと周りの人がそれに気づいてあげてもいいのにって思ってた。
彼はあんまり自分のことを語るほうじゃないし、サークルの中でも彼に彼女がいること、知らない人もいるみたいだったけど、わたしには彼、高校の時からの彼女とちゃんと続いてる、って言っていた。それを聞いて、彼のこと、ちょっと見直した。マジメな面もあるんだと思った。
わたしが日記をつけ始めたのは、上京して、大学で彼と知り合ってすぐの頃だった。最初は、初めての一人暮らしだからと思って、生活費の家計簿みたいなこととか、明日買わなくちゃいけないものとか、そんなものだったけどそのうちに、ゼミのこととか、サークルのこととか、一日に数行だったのが、だんだん増えてきて、ページを超える日もあるほどにもなった。その日の出来事、その日のわたしを書くことが毎日の習慣になっていった。今まで日記なんかつけたこともなくて、夏休みの宿題の日誌でさえ満足に埋まらなかったわたしが、毎晩欠かさず書いていた。書くのが楽しかった。忙しいほどにやることがたくさんある毎日がうれしかった。
《略奪愛って言葉は悪いけど、こうやってふたりが出会ったのは「縁」であって、そういうめぐりあわせだったんだと思う。その時にどちらかにすでに相手がいる場合もあると思うし、それが障害になることもあるけれど、それを乗り越えることがふたりの運命だったんだと思うの。
時に人は結婚している相手を好きになったり、恋人のいる人を好きになったりすることもある。でもそれは相手に奥さんがいるから好きになったりした訳じゃなくて、好きになった人がたまたまその人だっただけ。
誰だって他人の物を奪いたくない。出来れば誰の心も傷つけたくない。だけどわたしたちは、初めからめぐりあう運命にあった。ただその時期が遅かっただけ。
だから、彼女さんには悪いけど、わたしは後ろめたくなんかない。
その障害を乗り越えた先に、わたしたちのほんとうのしあわせが待っているから。》
朝方から男の携帯が無言で振動し続けている。
男は疲れ果てて眠り、わたしは彼の右手の運命線の伸び方を調べていた。着信した携帯を見ると女の人の名前、きっと彼女さんだろう。せっぱつまったように着信を繰り返すその携帯の向こうに女の焦り顔が見える。どうして女は自分の男が浮気をするとすぐに気がつくのだろう。
眠り続ける男のかわりにわたしがその着信に出る。
「彼ならまだ寝てます。」女は驚いたようだった。
「あなた、誰?」
昨日の夜から一緒なんです、彼の部屋にいます。わたしがそう言うとしばらくの沈黙の後、向こうから切られた。
男はまだ起きない。昨日たくさんした、でも、もっとしたい。今までの分までもっとして欲しい。
携帯の電源を切る。画面が暗くなる。カーテンの隙間からわずかに差し込む光以外、わたしたちのベッドを照らすものはなにもない。
わたしは熟睡する男の横にもぐりこみ、男の足を太ももで挟むようにして、自分の陰毛を擦り付ける。人間の肉のあたたかさ。男の胸に顔をうずめると、彼とは違う匂いがした。名前は同じなのに、顔も、声も、息の匂いも、毛の生え方も、ぜんぶ違う。この男は彼と違う人間だけど、これがわたしのあたらしい運命。早くこうしたくて、ずっと待ってたから、これ以上待てなかった。
昨日の合コンでこの男の名前を聞いた時、運命を感じた。学生の時好きだった彼と同じ名前だった。男のほうからから誘ってきたけど、こっちから誘いやすいようにしていた。
そんな昨日のわたしは他の子からしたらかなりヒンシュクだったと思う。けど、別に気にしない。そんな事気にしていたら、目の前のしあわせが逃げていってしまう。
あなたたちはこの前までのわたし。怖がって、周りを気にして様子をうかがってるうちに、大事なものが誰かに取られていっちゃうのに、指をくわえて見ているだけ。
この男は彼と同じ名前だった。わたしの最初の人と。彼はもう、わたしの名前も覚えていないかもしれないけど、わたしは忘れてない。彼と出会ったことから始まった、わたしの日記。
運命が、あの時からやりなおせって言ってる。初めて彼と会ったあの時から、もう一度やりなおせって言っている。
これを逃したら一生後悔すると思った。
わたしにも眠気がやってくる。こんなに満足な気持ちで眠れるのなんて、何年ぶりだろう。
眠りに落ちる前に思った。
日記に書かなくちゃ、この男の事。
わたしは今、自分が手に入れた物、やりとげた事を日記に集めている。
彼は大学のサークルの友達だった。ゼミもわたしと一緒で、お互いどこに行っても顔を合わせるから、よく話すようになった。偶然にも田舎も隣の県だったし、気も合った。東京に出てきたばかりで心細かったわたしは彼に、他の友達とは違う親しみを感じていた。
彼はよくみんなの前で、くされ縁、ってわたしたちのことを言ったけど、わたしは、嫌そうな顔をしてそんな事を言う彼のことが、ちょっと誇らしかった。彼は、今まで彼氏もいたことがなかった田舎の女子校出身のわたしに出来た、初めての男の子の友達だった。
入学当時から親しかったから、彼とわたしは恋人同士だと勘違いされることがあった。でも、彼にはずっと付き合ってる彼女がいたし、わたしは彼のこと、キライじゃなかったけど、付き合うとかの対象じゃないって思っていた。彼とわたしでは明らかに不釣り合いだった。彼はサークルの中でも目立つほうで、女の子がいつもそばにいる、彼にあこがれてサークルに入ってくる子もいたりする位だった。背も高いし、かっこいいし、雰囲気もさわやかだから、どんな女の子にもモテると思うけど、その分、いろんな子と付き合ってるって噂もあって、どっちかというと地味なグループのわたしの友達たちには、チャラチャラしてるって不評だった。確かに女の子にはだらしないかなって思うこともあったけど、どこか憎めない所があって、彼のこと悪く言う子たちだって話しかけられればうれしそうにしていた。パッと見は軽そうで何にも考えてなさそうに見えるけど、ほんとは意外と気がつくタイプで、後輩の面倒見もいいのに、第一印象で誤解されやすいから、もっと周りの人がそれに気づいてあげてもいいのにって思ってた。
彼はあんまり自分のことを語るほうじゃないし、サークルの中でも彼に彼女がいること、知らない人もいるみたいだったけど、わたしには彼、高校の時からの彼女とちゃんと続いてる、って言っていた。それを聞いて、彼のこと、ちょっと見直した。マジメな面もあるんだと思った。
わたしが日記をつけ始めたのは、上京して、大学で彼と知り合ってすぐの頃だった。最初は、初めての一人暮らしだからと思って、生活費の家計簿みたいなこととか、明日買わなくちゃいけないものとか、そんなものだったけどそのうちに、ゼミのこととか、サークルのこととか、一日に数行だったのが、だんだん増えてきて、ページを超える日もあるほどにもなった。その日の出来事、その日のわたしを書くことが毎日の習慣になっていった。今まで日記なんかつけたこともなくて、夏休みの宿題の日誌でさえ満足に埋まらなかったわたしが、毎晩欠かさず書いていた。書くのが楽しかった。忙しいほどにやることがたくさんある毎日がうれしかった。