独りぼっちの夜
ミナが目覚める。そこはホテルの一室だった。傍らで夜をともにしたタカシが下着姿のまま横たわり、微かな寝息を立てている。
少し開いているカーテンの隙間から夏の朝日が射している。
ミナはそっと起きてテレビをつけた。女優が嬉しそうに結婚報告をしている。
「つまらない。チャンネルを変えろ」と目覚めたタカシが言った。
「この女優が結婚すると思わなかった。もう少し見ていたい」
「他人が幸せだからといって、何が面白い?」
「でも、不幸な話を聞くよりも面白いわよ」
「俺は人の不幸が面白い」
タカシはクールで正直者である。あまり飾らず、自分の気持ちをはっきりと言う。顔立ちは南欧風でハンサムである。その全部が好きでミナは体を任せた。でも、タカシは決して自分の領域に入れない。そればかりが、ときどき、突き放すようなものの言い方さえする。これ以上近づくなと言わんばかりに。
「私のこと、嫌い?」とミナは微笑んだ。
「嫌いじゃないよ」とタケシは言ってミナを抱き寄せた。
「部屋を出る前にもう一回やろう」とタカシは耳元でささやいた。
割り切った関係である。互いに過去を知らない。今も分からない。ただ仕事で知り合い、たまに夜の食事を重ねるうちに深い関係になっただけである。ミナもそう割り切っていたはずだった。でも、抱かれる度にだんだんと何か泥沼の深みにはまっていくような錯覚を感じずにはいられなかった。
いつもタカシから誘いの電話がかかってくる。それも気まぐれに。最初の頃は、簡単に抱かれる女と思われるのもしゃくだったので、三回に一回は断った。でも三年も関係が続くうち、誘いの間隔が長くなり、今では一月に数回程度になった。もう断ることはしなくなった。
先週、ミナは三十五になった。身寄りは遠くで暮す年老いた父だけである。その父からときどき電話が来る。電話では、元気かと聞くだけだが、いまだに結婚しない娘の行く末を心配している。バカがつくくらいの真面目な人間で、口下手な人間である。そのDNAをミナも受け継いでいる。
人はミナのことを美しくて誇り高き女という。高学歴で仕事もできる。一寸の隙のなさそうに見えるが、本当は線が細くて泣き虫だ。ただ、そんな姿を他の人に見られるのがいやで、誰にも見せたことはない。
「ミナも甘え上手にならないと結婚できないよ」と古い友人のサユリがよく言うが、そのサユリは遠い異国の地で暮らしている。近くにいるのは、上辺だけの友達だけである。もう誰にも心の中を打ち明けることができない。タケシにも。
初めて抱かれた後、タケシは言った。
「お前のことを好きだが、結婚する気はない」と言った。
変なことを言うと思った。売り言葉に買い言葉でもなかったが、
「私も。一度抱いたからといって、心まで任せたと思わないで」
言った後で、後悔した。でもタカシは微笑んだ。
「良かった、互いに割り切った関係でいられる」
ホテルを出た後、別れ際に、「この次、いつ会える」とミナは聞こうと思ったら、タカシが気まずそうに、
「しばらく会えないかもしれない」とタカシは言った。
ミナは平静を装っていた。
「そう」と呟いた。
「急に仕事が忙しくなった」と言った。
「仕事なら仕方ないじゃない」
「この仕事は長くなる。次はいつ会えるかは分からない」
別れようと言っているのだ。自分を飽きたのだとも悟った。ミナは、弱い女のように泣いてすがるような惨めな役を演じることはできなかった。
「じゃ、私たちの関係は終わりね」とミナは微笑み背を向けた。
「さようなら」と振り向きもせず、手を振って、別の道を歩いた。
数か月後が過ぎた。
同僚ユキがどうしても一緒に飲みたいというので会社帰りに一緒に居酒屋に寄った。
ユキがタカシの話をした。
「あなたたち、付き合っていなかった?」
付き合っているのを知っていながら聞いているのだとミナは思った。
「付き合っていなかったわよ」と平然とミナは答えた。
「なら、良かった。彼、ものすごく若い女と結婚したの。まだ二十二よ。肉食系のとてもセクシーなの。そのうえお金持ち。もしも、あなたが彼と付き合っていたなら、もてあそばれたようだから、慰めてあげようと思ったの」と嬉しそうに言う。
ミナとユキは互いに嫌っており、互いにそれを認めてい。ミナが嫌っている理由は、ユキが無神経でおしゃべりだということ。反対に、ユキがミナを嫌っている理由は、ミナが美しくて頭もよくて、そのうえ仕事もできたから。ただ表面的には、お互いに大人のふるまいをして、なるべく感情をあらわにしないようにしていた。
ユキが誘うのは、何か魂胆があると思っていたがこのことだったのかと思った瞬間、ミナの頭に血が上ってしまった。よろけたふりをしてビールをユキの服にこぼしてしまった。
「あら、ごめんなさい。どうも悪酔いしたみたいで、こぼしてしまったわ。本当にごめんなさい。これでクリーニングに出して。そんなに高そうでないようだから、こんなにかからないと思うけど」と財布から五千円を出してテーブルの上に置いた。
「時間になったから、もう帰るわ」とミナはわざとらしく時計を見たふりをして、さっさと一人で店を出た。
ミナは部屋に戻った後、声を出して泣いた。
泣いた後、窓を開けた。美しい月が出ていた。突然、携帯が鳴った。父からだった。
「どうしたの?」
「先週、誕生日だったな。“おめでとう”と言うのを忘れていた」
「ありがとう」
「元気にしているか?」
「元気している」とミナは明るそうに答えた。
「なら、いいけど。そろそろ、身を固めないのか?」
「考えている」
「相手はいるのか?」
「いるわよ。たくさんいるから、迷っているの」
「あんまり高望みするな」
「そうする」
「じゃ、またな」と言って父は電話を切った。
父がどんな思いで電話をしてきたのかを想像したら、また涙が流れてきた。
時計を見たら、まだ十時だった。長い夜が始まったばかりだ。そして、まだまだ独りぼっちの夜が続く。ひょっとして、これからも孤独な夜がずっと続くのではないかという不安を抱えながら眠りについた。