「デリヘルの恋人たち(六)
照明を落とした明かりの中で、彼女のまんこを食い入るように見ながら、頭の片隅で考えることがある。自分はいままで人生の中で何個のまんこを見て来たのかと。マジマジトみることはそれ程なかったと思うけれども、陰毛の隠れながらも大陰唇やクリトリスが見えている風景はかなり見て来たとは思うのだった。自分の青春時代は今のようなインターネットでの過激な映像などなかった。生で見ることも大学生の頃に、とある地方のストリップ小屋でのプロのまんこが、童貞を失う前にみた初めてのまんこであった。それ以来、素人のまんこをはじめ、風俗でのまんこ、恋人のまんこが主なものである。近年のネット映像のまんこは一日10人ぐらいは見ているので、かなりの数にはなったはずだが、まんこを一万個見たとはまだ言えない気がする。
この形や色合い、濡れ具合、入れ具合、それに敷衍して身体全体の感じ具合はほんとうに十人十色であることだなと思う。良い悪いというのも変であるが、やはり自分の陰茎のサイズに合った穴というのはそれ程あったとも思えない。今までの経験で言えば、良いまんこはまず濡れ具合である。そして相手の反応である。ある人妻曰く「おんなは感度よ」という名言をいつも思い出すが、その本気の感度を感じることがると身もだえするほどの快感を得ながらの射精ができる。
悪いまんこ、こう言っては身も蓋もないが、やはり具合が悪いなと思ってしまう穴はあった。濡れない穴は最もいただけないし、その濡れないのはやはり持ち主の性格や肉体の悪さの結果であることは確かであろう。風俗にありがちな「ビジネス・セックス」はまさに悪い一つの例である。できるだけ手抜きをして「手抜き」する的な身振り素振りは全く興ざめである。ベテランの方々の多いという感想はあるが、昔の風俗はお客もお客なので、態度が粗っぽくなったり、さっさと終わりにすることはある意味当たり前なことだったと想像もできる。
しばらく前から風俗嬢のキレイ・カワイイは当たり前で、写真で選ぶのも悩むことも多い。修整ものは置いておいて、プロポーションもモデル並み、サービスというよりは「恋人プレイ」的は親しみ深く性交してくれることの確率はかなり増えたと思うのだ。ただ自分のその確率は決して多いとは言いがたいが、そんな中ここで出会った彼女はまさに理想のまんこだった。何がそうなんかと目の前の、愛汁でテカテカのまんこを見ながら舐められ続ける陰茎の快感のなか、考えてみる。それは何しろキレイなまんこなのだ。それは処女やウブとかそういうものではない。この職業を2年はしているのだから、相当の数の男竿をブチ込まれてはいる。そのまんこであるのに、なにゆえこれほどキレイで素直なまんこなのか。と、数秒の間、脳内で考えながら、舐めては吸い舐めては吸い、「もっとナメて」と要求しているのだった。(つづく)
作品名:「デリヘルの恋人たち(六) 作家名:佐崎 三郎