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数学だけはどうしても苦手だった。決して嫌いなわけではなくて、苦手なのだ。自分の人生の中で「勉強する」という概念をもつようになったのはいつからか分からないが、それ以降勉強は得意だと自負して生きてきた私も、数学だけは思うようにいかなかった。
覚えてる限りでは、「きはじ」からつまづいていたような気がする。
聞いたことがある人もいるだろうが、「きはじ」とは「距離」「速さ」「時間」の頭文字をとった言葉で、計算して求めるときにそれぞれの関係をわかりやすく示したものである。通常、「き」の文字の下に「は」「じ」の文字を書き、上から下は割ることを意味し、横方向はかけることを意味する。どれか一つを求める場合には、それにしたがって残りの二つを使い計算をせよ、ということである。
例えば、「は」つまり「速さ」を求めたい場合は残りの「距離」「時間」を使って求めることになる。このとき、「き」の下に「じ」の文字があり、これは割ることを意味するから、「距離」を「時間」で割れば良いということが分かるのだ。6Kmを3時間で移動した人の速さは、6÷3=2 時速2㎞ということになる。
こんな簡単なことを書いている今もなかなか頭を使ったような気になっている。要するに、数学なんて高尚なものではなく、小学校の「算数」の段階でおいていかれてしまっていたようだ。
先日、友人と世間話をしていたときのことだ。小学校のときなどに、台風で学校が休校になることは因数分解に似ている、と友人が言った。
小学生というのはさして学校が嫌いなわけではないのだろうが、休日が大好きである。当日は雨戸がガタガタなる音を聞きながら大喜びをし、一日中外に出れないから結局手持ち無沙汰なのだが、とても有意義な1日を過ごしたぞという満足感に包まれる。翌日すっかり晴れて登校したときにも、昨日はラッキーだった、いつもより遅くまで布団にいた、普段は学校に行っていて見れないようなテレビ番組を見た、と友達に語りはしゃぐのだ。
しかし、授業数は決まっているため、休校になった分、夏休みなどの長期休暇を1日削って授業を行うというのがオチだった。それでも、なぜかその日は納得したようにしっかり登校し、授業を受けて帰り、翌日からの休みを満喫した。少なくとも私と友人はそういうガキンチョだった。だから、休みが1日増えたような、そんな得したような気分になっていたのだ。
この、架空の利益が、因数分解に似ていると友人は言う。友人も私と同じく文系まっしぐらな男で、因数分解というものの本質を捉えてはいないのかもしれないが、なかなか面白い話だった。
友人は因数分解において、式を都合のいい形にするために、ある数を足して同じ数を引くという作業をするときのことを言っているらしい。同じ数を足して引いているのだから、いわば0を足しているのと同じことで、値に変化はない。しかしこの一手間によって、式が面白いように形を変え、簡単な形になる。そして、変数に値を代入したときの計算は驚くほどに容易になる。結果は変わらない。しかし確実に得をした気分になる。まさに、台風がもたらした休日である。
自分で言うのもおかしな話だが、私はまだ若い。まだまだ先輩と呼ぶべき人間が多いこの私に、人生を語る資格はないことは承知しているつもりだ。しかし、この話を聞いて、台風休校だけではない、人生の多くのことが因数分解なのかもしれない、と私は思った。
人はなんのために生きるのか、人生の正解は何なのか、そんな次元の話をしているのではない。それはいうなれば変数Xであって、誰かが代入すべき数を示すのを待つしかないのかもしれない。それでも人が答えを求めようと必死に生きることこそ因数分解なのだ。考えて、努力して、一喜一憂して、いつ変数に数を代入してもいいような準備を整えているのではなかろうか。
だとすれば失敗してもいいのだ。思うようにいかなくてもいいのだ。だって答えは同じなのだから。どんなにうまくまとめても、かえって汚い式になってしまったとしても、我々は0を足しているだけであって答えは変わらないのだ。
とはいえ、未熟な私の人生は、きれいに括弧でまとまっていて欲しいなとおもうのであるが。
作品名:0を足す 作家名:京極鷹司