『 MOKUROMI-KYO 5 ~目論見教~ 』
最盛期、目論見教徒は国内外を合わせて、125万5000人であった。それは、個人が立ち上げた団体としては驚異的な数値であるが、実際のところ、全人類共通の問題を追及し、研究した人の数としては、あまりにも少ない数値だといえる。しかし、何故、そこまでの人数が教徒になったのかと真剣に考えてはみたが、人が何かに気付き、その研究に没頭することのためにだけ人生が用意されているのであるとすれば、結論が出るまでの間に増え広がっていったのは当然であった。テーマは常に、人と人でないものとの関わりである。また、人が人以外のものにのみ惹かれ、憧れを抱く対象を人間でないものにすることが果たして正しいのか。人が妖怪と呼ばれるまでの人生は、どれだけのものであるかを知る者は、世界でも50万人に満たないという。現実を良いものにし、発展させるために、人以外は必要ないとするならば、これまでの歴史は全て間違いであったということになり、誰もその様なことを受け入れる者は居ない。しかし、新しい時代を求めるならば、少なくとも何か一つは捨てなければならないという。
そこで、目論見教では、まず、神という概念を捨て去ることにしたのである。しかし、それでは信者も集まらない上に宗教法人として成り立たないために、更に新しい概念を作り上げる必要があった。それは、その時代、誰もが生きる目的を失っていた時代だからであり、未来という言葉が輝きを持たぬトンネルのような時代に突入していたからである。また、私自身、妖怪と呼ばれるまでの人生を受け入れる勇気が無かった。石を投げつけられるような生活と、残酷な言葉に倒れる日々とが私を多少、強くはしていたが、人生とはかくも戦いばかりであるのかと感じる全てが人からではないところから来ていると感じていた。人を神という概念と同じ位置に持っていくことで未来という言葉に再び光を持たせることは可能なのかどうか。人間が神として生きる時代を創ることは、可能であるのか。自然現象や、何か科学的に実証できない事柄に出会った時に生じる神頼みの気持ちを考えると、人が人として生きることが出来ない状況が、神を創り出したのではないだろうか。社会的システム以外の中で、何かに従う必要は無いと私は思い、自然や不思議や恐怖を感動に替えたいと、確か考えたのではなかったかと記憶している。
ところで、四十半ばのある日のことであったが、私の考えを変える出来事があった。道端で老人が私に話しかけて来て言ったのである。「私はねぇ、妖怪になると考えたらね、少し楽しみが出来た気がしたよ」それから、老人はひょこひょこと歩いて先の角を曲がっていってしまった。咄嗟に返す言葉はなかったが、御礼くらいは言っておくべきだったのではないか。しかし、私は追いかけなかった。その時、涙が頬を濡らしていたからでもあり、また、老人へ返す台詞が見つからなかったせいである。活動自体は細々としたものであったが、妖怪と呼び区別していた人達の言葉は胸に響き、といって、考えを180度変える訳にもいかなかった。
身の危険はいつの時代にも現れる季節の移り変わりのようなものであり、次の年になると思い出す寒さと同じであった。ある日のことだが、私は大変なことに気付いてしまった。それは瞬きの間にも物事は動いているのだということである。あっという間に人生を終えるところであったが、アルミとチタンにより守られた体が今も尚、存在し続けていることに驚きを感じている。
人は方位磁石を持っているというが、それは本当のことなのだろうか。方向感覚というのは絶対的なものであっても、地図は相対的なものなのではないかと私は考えている。それは、目的地がどこであっても左は右になり、北と南は入れ替わるものだからである。そのことで医者の世話になる訳にもいかず、かといって警察が相手にしてくれる話でもないので、ある目的の下に動くときに全ての物事は入れ替わるからであり、記憶や目に見えるもの、人も風景もまた同じなのであった。
作品名:『 MOKUROMI-KYO 5 ~目論見教~ 』 作家名:みゅーずりん仮名