人は今人生でなく人死を歩む
そもそも、生きるとはなんだろうか、死ぬとはなんだろうか、我々人間いや考え行動できる生き物すべての最大の疑問であり、もっとも開けてはならないパンドラの箱だ。
「人生」とは人が生まれると書いて「じんせい」と読む、では人が死ぬと書いて「人死」とはなんと説けるだろうか?
いやまて、そもそも人生とはなんなんだろうか、俺はなんのために生まれてきたのだろうか、繰り返すようだが一生の疑問だ。
「人生」それは私を着々と死に向けて歩ませている、勝手に俺を作っておきながらなんて理不尽なものだろうか。「人生」それは私に苦難を持ってくる、これもまた迷惑である。「人生」楽しいことを持ってくることもある、しかし私に与えられた喜びはわずかである。飴と鞭という言葉があるが私はまんまとわずかな飴欲しさに多くの鞭に打たれている。しかしこれは現代社会において多くの人がこれに該当する、そしてその数ゆえそれが当然のこととして知られているのではないだろうか?
私はつい最近満員電車、いや満員というよりは150%ほど乗った電車に初めて出くわした。苦痛であった。嫌だった。なんであんなにも嫌なものに乗らねばならないのだろうか?
我々の生活は毎日がデジャブの繰り返しである。それゆえ、たまに与えられたわずかな希望や幸せにすぐに食らいつく、そう、我々はそこらの飢えた野良犬や狼や鴉となんら変わりないのだ。
毎日同じような日をこのまま繰り返していては、「人生」を進んでいるとは言えない、その道にいるとはいえない。その時点で我々はすでに「人死」の道へ進んでいるのだ。人は生きる喜びを忘れかけている、それは豊かになったからではない、本来、求めても手に入らないものを人は伝説や迷信おとぎ話のようなもので空想していた、しかし現代において求めるべきものは基本的に手に入る、ましてやゲームは全てを叶えてくれる、そうゲームなのである、現代の人間はゲームによって成長することができる大人たちが古い考えでゲームを否定する時代はもはや終わりを迎えるべきだ、決して勉強ゲームのソフトが出たからなどとふざけたことは言わない、格闘ゲームでも戦争してもなんでもいい、ゲームで我々は成長しているのだ。しかし、その成長は待っているだけの成長である、つまりは私が言いたい「人死」なのである。
人はなぜ待つ生活に慣れてしまったのだろうか?いやこれは日本人特有のものだろうか?
作品名:人は今人生でなく人死を歩む 作家名:kagerou陽炎