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「ベンピクライスト」

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食って、寝て、出す。これだけでは人間としての尊厳は保たれないものの生きていることの証明にはなる。だがどうだろう、近頃の私はどうだろう?出ない。食べてはいるのに出ない。出ない次の日も出ない。それでも脳細胞が破裂し脳漿が螺旋の渦を描きながら噴き出る勢いで力むと、なんとか出る。だがそれも兎のソレだ。コロコロとしたソレは一見愛らしくもあるが私は兎ではないし人間で在りたい。人として排泄したいし排泄物にも人から這い出てきたものとして在ってほしいのだ。

出した翌日もその流れが引き続いていればいいもののすぐに立ち止まる。出したからいいじゃん的な考えで歩みを止め留まろうとする。全くもって怠惰だ。やがて何日間が続きやっと腹から通達が来たかと思えば出ようとしない引き篭もり精神。腹が立つが出ないので腹が張る。身体は出したい、でも排泄物は出ようとしないなんて排泄物自体が独自の意志を持っているかのようにすら感じる。いつ独立した?認めた覚えはないのだが。

やがて何日かが過ぎた。いや、数えていた日々さえ遠く過ぎ去ったのだ。今思い出せるのは数えられていた日々のことだから実際はもっと遠い。忘れてしまった。通達は来ない。一体この身体はどうなってしまったのだろう大丈夫なのだろうか。一抹の不安が過ぎり下剤にでも手を出そうかと考えていた頃だった。久しぶりに感じるものがあった。これはそうだ、あの感覚だ。「すぐそこまでお越し頂いております」といった身体内部から発せられる感覚。意識すれば思い描いた出来事は起こりやすくなる。いや、それとも無意識に感じるものがあったから身体に不安を覚えたのだろうか。鶏が先か卵が先かのような話だ。ともかくトイレへと急いだ。頬の肉が少し緩んだ。排泄が出来ることに悦びを感じている。見方を変えれば変態なのではないかと思いながらドアを開け蓋を開け腰掛けた。

おかしい。出ない。またいつものこの感じだ。すぐ傍に居る実感は沸いているのに当人がそっぽ向いている。それも未だかつて無いほどに日数が経っているからかなりの大物だ。なんとしても出さなくては本当に薬に頼らなくてはならない。何がなんでも!そう思い私は力んだ。ひたすら力んだ。いつも以上に気持ちは妊婦だ。
力んでいる最中は何も考えられない。トイレから出た後に時計を見るとその時間の経ち方に驚く、竜宮城にでも行ってきたのかとすら思うほどに一秒が一秒でなくなる個室、それがトイレだ。時間も自我も全て越えて一つに染まる、私は私さえも居ないように感じる室内で、ただ一つを産み落とそうとする。力むことと休むことを繰り返す。ゆっくり力んだり、急激に圧を高めたり、緩急をつける。私からソレは見えないが感じるものはある。少しずつだが顔を出し始めた。だがここで一気に力んで終結するわけではなく、そこからがまた長い。持久戦の中で私は自分を褒めて励ましながら糞闘する。思い返してもこんなにも前向きな出来事はなかなか無い。力んでいる最終は自分を透明にし、その直後、休憩がてら自分に「よし、あともう少しだ」とか「まだまだやれる」なんて思うこれは最大限に自分を認め慈しんでいる。プラスとマイナスの連続。排泄行為には宇宙すら感じる。

よし、出ている!まだ残っている!この先もまだまだ終わらない!それからも額に汗かき満足するまで続けた。
大仕事だった。一息ついて満足感を得ながらその場を後にしようと紙をあてがう。
ここで違和感を覚える。今まで感じたことのないこの感覚、拭った感じが一切ないのだ。紙を見るも何も無い、綺麗なままだ。あれだけの大仕事だったのだ、何も無いわけが無いじゃないか。混乱しつつも立ち上がり俯きながら振り返る。

何も無い。そんな馬鹿な!あれだけ時間も忘れて夢中になった、確かに出た感覚もあった、なのにどうして、これはなんだ何も無い!入ってきた時と同じだどこもかしも汚れていない、何事もなかったかのように、まるで最初から私など居なかったかのように。

私など居なかった。
居なかった?


古くから言われていることの一つに、長く生きれば動物は妖怪の類へと変化し、物にも魂が宿るとされている。科学的な根拠など無く、魂などと呼ばれるものが実在するのかも眉唾ものだ。
そして長い時間、共に暮らした夫婦など、生き物は連れ添った者に似ると言われている。これは人の場合は最初から似たものを探しているなどと諸説あるものの、個人的には魂が同じ方向を向き続けていると、自ずと同じ形へと変わってくるのではないかと。記憶は当人だけのものではなく、誰かに受け継がれるものでもあり、また当人でさえ保管される場所は脳内のみならず、身体全体が少量ではありながら記憶できると言った話すら聞く。

私は人ではなかった。
私は便器だった。
私は長い間この家で便秘で苦しむ一人の男を見守り、受け入れ、流し続けた便器だ。
出産に立ち会っている主人が涙を流し悦びに打ち震えるのは何故か、妻の苦しみや悦びが移り、分かち合うからだ。当人は経験などしなくても、相手方のその気持ちが大きければ大きいほど周囲へと移る力は強くなる。
この個室で苦しんでいた男を私は何度も見た。その汗ばんだ背中を背後からそっと眺め続けた。彼の想念は凄まじいものだった。ただ排出することに絞られたその念波は排出時間としては長く何度も幾重にも私を打ち続けたのだ。私はただ流すためだけに存在しているが彼の思いが移り、排出、いや生み出したいとすら思うようになってしまった。しかし私は動けない。ただ意思だけがここに在る。それならばと思い生まれたのが彼の感覚を掘り起こし、生きている人間かのような錯覚、そう、幻を私は生み出しただけだったのだ。

彼はまたすぐにやって来るだろう。私は役割を遂げるだろう。彼は生み出せる。しかし私は体を成したものを生み出す能力は無い。ただ受け止めるだけの存在。生み出したくても出来ない苦しみ。足音が聞こえる。きっと彼だろう。ドアが開かれる。鎮座するだけの私に腰掛け、室温は少しだけ上昇する。
作品名:「ベンピクライスト」 作家名:菊尾