サヨナラ、ヴィーナス。
あなたへ
「亜美~?そろそろ行くぞ~」
「うん、あと少し!」
この年齢になってまさか引っ越しをするとは思ってもいなかった。
私はカバンを肩にかけ
鏡に映るじぶんを見つめた。
住み慣れたこの街には思い出が多すぎる。
「ごめんな、急に。お父さんの都合で引っ越しだなんて。」
「大丈夫よ。なんとかなる。」
階段を下りていくと、父が申し訳なさそうに
飲み物を差し出した。
「数年したらまた戻ってこれるから。」
「それよりおじいちゃんが心配だよ。」
父の祖父が先月体調を崩し入院した。
地方出身の父は、小さい頃に母親を亡くしていて兄弟もいないため
祖父を傍で支える人が周りにいなく
そう何度も簡単に通えないところに住んでいるので
やむを得なく祖父の病院の近くに引っ越すことに決めた。
「いろいろ手続きしなくちゃな~」
「一からまた頑張ろう。」
私はサンダルのストラップが切れていたことに気が付かなかった。
「いつの間に..」
明らかにガッカリした表情を浮かべると
先に玄関で待っていた母に笑われた。
「よく彼にも注意されてたわよね。」
「へ?」
「『亜美、その靴歩きにくいならやめなよ。』『可愛いからいいの。』」
「..うん。」
笑ってしまうくらい昔のことで覚えているはずなんてないのに
私の記憶は壊れかけのビデオテープより鮮明に映し出された。
「そういえば彼とはどうなの?」
私は何も返せず、ただ微笑んだ。
さようなら
然様なら
生まれてから死んでゆくまで何気なく使い続けていくこの言葉に
そんな深い意味があるだなんて思ってもいなかった。
私には重すぎる。
重すぎるよ、ユウヤ。
私はサンダルの隣に並んでいたスニーカーを履いた。
スニーカーを履くなんていつぶりだろう。
「よし。忘れ物はないな?」
「大丈夫です」
父がゆっくりと玄関のドアを閉めた。
「まあ家はこのまま空けとくし、おじいちゃんの体調がよくなったら
また戻ってこれるから。」
「お父さんって本当に東京が好きよね~」
「忙しくても、生きている実感がする街ではないか。」
「ふふふ」
車に乗り込んだとき、私は忘れ物をしたことに気が付いた。
「ごめん、やっぱり先に行ってて!」
「え?ちょっと、亜美!」
小さな頃の私に教えてあげたい。
忘れたくないもの、忘れちゃいけないものは
白紙のノートに描いておきなさい
いつか思い出せなくなるその日が来るまで
大切にしておきなさい
もし、忘れてしまったそのときには
――――――――そっとそのページをめくりなさい。
.....................
〈〈ガチャッ〉〉
「忘れ物しちゃった。」
「..僕の部屋に?」
「うん。」
「わたしと出会ってくれてありがとう。」
「永遠のさよならみたいだね。」
「もう会えないと思う。」
「..そっか。」
「あなたのこと、忘れちゃうかもしれない。」
「それでもかまわないよ。」
「..ごめん。」
「僕はキミにずっと憧れていたんだ。」
「..今は?」
「これから先もだよ。」
「..ありがとう。」
「そういえば、何を忘れたの?」
「目瞑って」
「え?」
涙目の瞼に優しくしたキスを
「あなた」はきっと忘れない。
―――――――――――――
「サヨナラ、ヴィーナス。」 / meluco.
作品名:サヨナラ、ヴィーナス。 作家名:melco.