寄り添った影
寄り添った影
長谷川廣秀
壁に掛けられた時計は、19:30を指している。テーブルを挟んで、僕と少年が座布団の上に向かい合って座り、テーブルの上には、コップに入ったウーロン茶が二つと、国語、数学、英語問題集と表紙に書かれた冊子が無造作に置かれている。僕は、数学と書かれた一冊の冊子を手に取って、ぱらぱらとページをめくり、一つのページをおもむろに少年の前に広げた。
「いいかい。今日の単元はポイントだからさ、覚えて理解しておくんだ。解いてみてごらん。」
広げられた問題集には、連立方程式の文章題問題が左右に二問ずつ書かれている。正座した僕の真向かいには、がらの入った白いTシャツを着た眼のくりっとした髪の短い少年がテーブルを隔てて、同じく正座して座り、右手に握ったシャープペンシルを問題集に押し当てたまま、首をかしげたり、頭を振ったりする。だが、押し当てられたシャープペンシルは最初の場所からは一向に動かなかった。
「分かんないかい。うーん、どこが分かんないかな。」
僕も目を細めて首をかしげて、困ったように声を上げる。
「えーと、まずは問題を良く読んでみて。この先に走っている人の速度をXと置くんだ。そして、この後から走ってくる人の速度をYと置く。先に走ってる人は、後に走ってる人より5分早くスタートしたんだよね…。」
少年は、目をまるまるとさせながら僕の話に耳を傾けているのだが、視線は下を向いて身を固めていた。
「そうだなあ。どうしようか。もうちょっと前の方からやってみるかい。」
少年はこくりと頷く。
「どこから、復習するかな。」
そして僕はテーブルに置かれた数学の問題集のページをめくり始めた。
僕が電車の中にいたのはそれから、1時間半後の21:00だった。今の時間、電車の中に人影はまばらで、仕事帰りなのだろう鞄を持ったスーツ姿の男性や女性が多い。窓から見える街の明かりは煌々としていたが、街に人影を見る事は出来なかった。僕が家庭教師のアルバイトをしている中学生の家は、僕のアパートのある街から8駅隔てた所にあり、移動には電車は使っている。帰り際、中学生の母親から子供の勉強の具合はどうでしょうかと聞かれ、分からないままでつまづいた部分があると思いますがそれを補うようにしっかりと復習をやりましょうと答えた。
家庭教師のアルバイトの時給は2000円で、比較的割高なアルバイトだ。地方から東京に上京して大学に入学して以来、足りない生活費をアルバイトで補っている。親はわざわざ東京の大学に行かなくても、地方の大学でもいいんじゃないかと勧めたが、高校生だった僕は東京の大学に行きたいと言い張った。しまいに僕の頑とした態度に両親も折れ、東京の大学に行ってもいいが、東京は物価が高いから、仕送りで足りない分はしっかりアルバイトをするという条件で東京に行くことにOKを出した。大学に入学してそれから、家庭教師を含めて二つのアルバイトを掛け持ちしながら大学に通うという生活を送っていた。
この大学に進むことを決めたのは、インターネットで調べた大学の案内が面白そうだったこと、それなりの知名度のある大学だったから卒業後の進路も融通が利くだろうという現実的な理由からだった。高校では理系の進学コースで、大学では工学部を進路に選んだ。専門課程は電気・電子専攻にしようか、化学専攻にしようかと迷った末に化学専攻に進んだ。二年生となった今は、毎週の火曜日、水曜日、木曜日の午後の授業の時間は、化学実験に当てられている。
今日の家庭教師のアルバイトの終わった後は、有機化学実験のレポートを書こうかと考えてバックにレポート用紙と実験に使ったテキストを入れてきていた。部屋にあるパソコンは、デスクトップのパソコンを使っているから、一度、紙にざっと下書きした後にパソコンに入力しようと思う。大学ではインターネットで調べたホームページの文章をそのままにコピー、ペーストして貼り付ける所謂、コピペに厳しく、もしもそうやってレポートを作成した事がばれたら赤点は免れない。そういうこともあって、自分の考えをパソコンに入力する前に、一旦、紙に書いてみる事にしていた。それに知識を身につける為には紙に書いた方が覚えがいいだろう。
僕が住む街の駅のビル構内には、コーヒーショップがあって僕はたまにそこで休んで本を読んだり、レポートを書いたりしていた。このコーヒーショップは、普段から下校途中または、塾や予備校の帰りであろうか高校生が教科書やテキストを広げて勉強していたり、仕事帰りであろう会社員やOLがパソコンを広げてなにやら作業をやっていたりするから、店全体が本のない図書館にも似た雰囲気を醸していた。今から行けば、閉店までまだ1時間以上はあるからゆっくりとレポートに取り組めるはずだ。
僕は電車の窓から外の暗がりを眺めながら、この前の有機化学実験でやった一連の有機合成反応の事を思い出した。亀の甲羅の形の分子構造を持った出発のベンゼン環を段階を追って変化させて、別の化合物を作りだしていく。ガラスの実験器具に金属と液体を加えて温めたり、混ざった液体を分離したりと言った一連の操作が、中世のヨーロッパで行われていた錬金術を連想させるなと思った。そうしているうちに電車が僕の街についた。
コーヒーショップの中に、客は7人ほどだった。窓に沿って造られた長テーブルに腰掛けて、本とノートを広げている高校生らしい客が男女一人ずつ、丸テーブルに腰を掛けてノートパソコンを広げている女性客が一人、四角いテーブルに向かい合って腰掛けて話込んでいる男女の客が二人いた。カウンターのレジ前には、注文をしようとメニューを眺めている客が男女一人ずついて、天井から下がった暖かいランプの照明が店内を照らし、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。カウンターの後ろの台の上ではコーヒーメーカーが、ぐつぐつと音を立てながら動いて、店全体をコーヒーの独特な香りで満たし、カウンターの中には、白いシャツに、黒いスカートはき、紺色のエプロンをつけて髪をポニーテールにまとめた若い女性の店員二人が、客の注文を受けている。僕はカウンターの中を一望して、カウンター奥のドアに目を向けた。
(今日は、バイトのはずだったんだけどな。奥にいるのかな。)
この店では、同じ大学に通う学年が一つ下の、真鍋里香が店員のアルバイトをしている。今日は、夕方から夜までのシフトだったはずだ。
長谷川廣秀
壁に掛けられた時計は、19:30を指している。テーブルを挟んで、僕と少年が座布団の上に向かい合って座り、テーブルの上には、コップに入ったウーロン茶が二つと、国語、数学、英語問題集と表紙に書かれた冊子が無造作に置かれている。僕は、数学と書かれた一冊の冊子を手に取って、ぱらぱらとページをめくり、一つのページをおもむろに少年の前に広げた。
「いいかい。今日の単元はポイントだからさ、覚えて理解しておくんだ。解いてみてごらん。」
広げられた問題集には、連立方程式の文章題問題が左右に二問ずつ書かれている。正座した僕の真向かいには、がらの入った白いTシャツを着た眼のくりっとした髪の短い少年がテーブルを隔てて、同じく正座して座り、右手に握ったシャープペンシルを問題集に押し当てたまま、首をかしげたり、頭を振ったりする。だが、押し当てられたシャープペンシルは最初の場所からは一向に動かなかった。
「分かんないかい。うーん、どこが分かんないかな。」
僕も目を細めて首をかしげて、困ったように声を上げる。
「えーと、まずは問題を良く読んでみて。この先に走っている人の速度をXと置くんだ。そして、この後から走ってくる人の速度をYと置く。先に走ってる人は、後に走ってる人より5分早くスタートしたんだよね…。」
少年は、目をまるまるとさせながら僕の話に耳を傾けているのだが、視線は下を向いて身を固めていた。
「そうだなあ。どうしようか。もうちょっと前の方からやってみるかい。」
少年はこくりと頷く。
「どこから、復習するかな。」
そして僕はテーブルに置かれた数学の問題集のページをめくり始めた。
僕が電車の中にいたのはそれから、1時間半後の21:00だった。今の時間、電車の中に人影はまばらで、仕事帰りなのだろう鞄を持ったスーツ姿の男性や女性が多い。窓から見える街の明かりは煌々としていたが、街に人影を見る事は出来なかった。僕が家庭教師のアルバイトをしている中学生の家は、僕のアパートのある街から8駅隔てた所にあり、移動には電車は使っている。帰り際、中学生の母親から子供の勉強の具合はどうでしょうかと聞かれ、分からないままでつまづいた部分があると思いますがそれを補うようにしっかりと復習をやりましょうと答えた。
家庭教師のアルバイトの時給は2000円で、比較的割高なアルバイトだ。地方から東京に上京して大学に入学して以来、足りない生活費をアルバイトで補っている。親はわざわざ東京の大学に行かなくても、地方の大学でもいいんじゃないかと勧めたが、高校生だった僕は東京の大学に行きたいと言い張った。しまいに僕の頑とした態度に両親も折れ、東京の大学に行ってもいいが、東京は物価が高いから、仕送りで足りない分はしっかりアルバイトをするという条件で東京に行くことにOKを出した。大学に入学してそれから、家庭教師を含めて二つのアルバイトを掛け持ちしながら大学に通うという生活を送っていた。
この大学に進むことを決めたのは、インターネットで調べた大学の案内が面白そうだったこと、それなりの知名度のある大学だったから卒業後の進路も融通が利くだろうという現実的な理由からだった。高校では理系の進学コースで、大学では工学部を進路に選んだ。専門課程は電気・電子専攻にしようか、化学専攻にしようかと迷った末に化学専攻に進んだ。二年生となった今は、毎週の火曜日、水曜日、木曜日の午後の授業の時間は、化学実験に当てられている。
今日の家庭教師のアルバイトの終わった後は、有機化学実験のレポートを書こうかと考えてバックにレポート用紙と実験に使ったテキストを入れてきていた。部屋にあるパソコンは、デスクトップのパソコンを使っているから、一度、紙にざっと下書きした後にパソコンに入力しようと思う。大学ではインターネットで調べたホームページの文章をそのままにコピー、ペーストして貼り付ける所謂、コピペに厳しく、もしもそうやってレポートを作成した事がばれたら赤点は免れない。そういうこともあって、自分の考えをパソコンに入力する前に、一旦、紙に書いてみる事にしていた。それに知識を身につける為には紙に書いた方が覚えがいいだろう。
僕が住む街の駅のビル構内には、コーヒーショップがあって僕はたまにそこで休んで本を読んだり、レポートを書いたりしていた。このコーヒーショップは、普段から下校途中または、塾や予備校の帰りであろうか高校生が教科書やテキストを広げて勉強していたり、仕事帰りであろう会社員やOLがパソコンを広げてなにやら作業をやっていたりするから、店全体が本のない図書館にも似た雰囲気を醸していた。今から行けば、閉店までまだ1時間以上はあるからゆっくりとレポートに取り組めるはずだ。
僕は電車の窓から外の暗がりを眺めながら、この前の有機化学実験でやった一連の有機合成反応の事を思い出した。亀の甲羅の形の分子構造を持った出発のベンゼン環を段階を追って変化させて、別の化合物を作りだしていく。ガラスの実験器具に金属と液体を加えて温めたり、混ざった液体を分離したりと言った一連の操作が、中世のヨーロッパで行われていた錬金術を連想させるなと思った。そうしているうちに電車が僕の街についた。
コーヒーショップの中に、客は7人ほどだった。窓に沿って造られた長テーブルに腰掛けて、本とノートを広げている高校生らしい客が男女一人ずつ、丸テーブルに腰を掛けてノートパソコンを広げている女性客が一人、四角いテーブルに向かい合って腰掛けて話込んでいる男女の客が二人いた。カウンターのレジ前には、注文をしようとメニューを眺めている客が男女一人ずついて、天井から下がった暖かいランプの照明が店内を照らし、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。カウンターの後ろの台の上ではコーヒーメーカーが、ぐつぐつと音を立てながら動いて、店全体をコーヒーの独特な香りで満たし、カウンターの中には、白いシャツに、黒いスカートはき、紺色のエプロンをつけて髪をポニーテールにまとめた若い女性の店員二人が、客の注文を受けている。僕はカウンターの中を一望して、カウンター奥のドアに目を向けた。
(今日は、バイトのはずだったんだけどな。奥にいるのかな。)
この店では、同じ大学に通う学年が一つ下の、真鍋里香が店員のアルバイトをしている。今日は、夕方から夜までのシフトだったはずだ。