はじまりの旅
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――――わるいまじょはおおきくてきょうぼうなドラゴンにへんしんして、おうじさまのゆくてをはばみます。
朝早く起きたアニーとニタはロビーで本を読んでいた。アニーが読み聞かせる側で、ニタはアニーのたどたどしいそれを黙って聞く側だ。
ロビーには二人の他にクグレックもいた。あまりよく眠れずに早く目が覚めたのだ。朝食が出るまでアニーの朗読をBGMにぼんやりとする。
――――おうじさまはようせいたちのちからをかりてどらごんにたちむかいます。おうじさまのけんはどらごんにささり、どらごんはおおきなさけびごえをあげてしんでしまいました。
こんな物語をムーが聞いたらどんな気持ちになるだろう。いや、そもそもこのわるいどらごんは元々悪い魔女だったはずだ。わるいまじょはおうじさまに殺されたのだ。魔女であるクグレックは討伐対象になるのは些か辛いと思った。
――――おうじさまはとらわれのみのおひめさまをたすけてあげました。そして、おしろにもどり、ふたりはあいをちかいあいました。ふたりはけっこんしすえながくしあわせにくらしましたとさ。めでたし、めでたし。
愛を誓い合った二人は結婚した。好きな人と一生を遂げる。
こんな暖かな幸せな気持ちになるならば、それはとても素晴らしい人生なのだろうなと思った。愛する人と結婚して子供を産んで幸せに生きる。クグレックはそんな平凡な幸せに憧れたこともあった。
今はどうなのかと問われると、それは分からない。でも、憧れることくらい悪くはないとクグレックは図々しくも控えめに居直った。
「ねぇ、ニタ、上手だった?私、ご本読むの上手なの。」
アニーが誇らしげに言う。ニタは「はいはい、じょうずだね。」と投げやりな様子で褒める。それでもアニーは気を良くしたのか、次の絵本を引っ張り出し、再び読み聞かせ始める。
厨房から美味しそうな匂いが漂い始めて来たころ、客室が並ぶ奥の廊下から部屋が開く音が聞こえた。ムーとハッシュが会話しながらロビーへやって来る。ぼんやりしていたクグレックは慌てて背筋を伸ばし、姿勢を正した。
ムーがパタパタと翼をはためかせてロビーに姿を現すと、その後ろに続いてハッシュが現れた。
「おはようございます。」
ムーが丁寧にお辞儀をして挨拶をする。周りは「おはよー」とのんびりした様子で返事をした。
そして、ハッシュが気まずそうに「おはよう」とあいさつする。ニタはちらりとハッシュを一瞥すると不機嫌そうな様子で「おはよう」とあいさつをした。
クグレックは、ハッシュを目の前にして緊張で強張っていたが、勇気を振り絞って「おはよう」と声を出した。ハッシュと目が合ったが、ハッシュは気まずそうに目を逸らした。
ハッシュの様子が昨日とは違う。
ムーは後ろを振り向き、ハッシュの腕を引っ張った。
「分かった。分かった。ちゃんというから。」
と、言って、ハッシュはクグレックの傍に寄った。ニタのぎらぎらとした視線がハッシュに突き刺さる。
「クク…、昨日はすまなかった…。」
ハッシュが申し訳なさそうな様子で謝った。クグレックはどういうことかとゆっくりと首を傾げる。
「昨日、迷惑をかけたみたいで…。記憶は殆どないのだが。」
ハッシュは気まずそうに頭をぽりぽりと掻いた。が、覚悟を決めたようにしっかりとクグレックの目を見据えて
「…その、怖かっただろう。もう、薬の効果は切れたようだから、安心してくれ。」
と努めて真摯に言った。
クグレックはじっとハッシュを見つめる。昨日まで見せていたあの熱いまなざしはもうそこにはなかった。ただひたすらに誠実な眼差しがそこにあった。だが、それでもクグレックはハッシュのその眼差しに釘付けになり、視線を逸らすことが出来ない。顔は熱くなるし、変な動悸もしてくる。
(そっか、薬が切れちゃったんだ。もうハッシュは私のこと、好きじゃなくなったんだ。)
クグレックのことを好きだと言ったハッシュはもういない。
クグレックはようやくハッシュから視線を外し、「うん、そっか。私はそんなに気にしてないから、大丈夫。」と言った。
気にしていない、わけでもない。
やはり少しだけ、クグレックは寂しさを感じた。
もうハッシュはクグレックのことを愛しているわけでもないし、結婚すると言いだしたりもしない。一瞬でも『おうじさまとおひめさまのようなしあわせなけっこん』に憧れたクグレックは馬鹿馬鹿しく感じた。
クグレックは深く椅子に座り直し、小さくため息を吐いた。
その後の朝食は、なんとも気まずい空気が流れていた。無邪気にニタと朝食を楽しむアニーの声だけが一人楽しげだった。
それからクグレックはニタとアニーの面倒を見た。一緒におままごとをしたり、かくれんぼをしたり、人形遊びをしたり。少し疲れるが、それはそれで楽しい時間だった。無邪気なアニーと過ごす一日は悪くない。
ムーは、友人がいる島までの定期船の切符を予約しに町へ繰り出している。行き先はハワイという島だそうだ。ハワイという島は、誰もが憧れるリゾート地らしい。そのため、ハワイ行きの船は定期便が出るほど人気がある。
そして、ハッシュは、熱心にディレィッシュの看病をしていた。昨日白魔女の家を出てからの記憶がほとんどなく、今朝目を覚ました時は慌てた。白魔女の家を出たというのに、気が付いたらティグリミップの宿屋で、ベッドには未だ苦しそうに眠っている。薬の入手は失敗したのかと思い、ハッシュは傍で眠っていたムーをたたき起こして事情を聴いていた。
そして、その瞬間彼は冷や汗をかいたのである。ディレィッシュが死にかけているのに、薬のせいだとは言え、クグレックに嘘っぱちの告白をしたりして困らせていたことを聞かされたのだ。流石に田舎育ちの初心な未成年の女の子を弄んでしまったことに、彼は強い罪悪感を覚えていたのだった。
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その夜。ニタはクグレックと同じ部屋で過ごしていた。昼間、ひたすらアニーと遊びまくった結果、アニーは酷く疲れて爆睡状態らしい。ベッドを抜け出してもアニーは起きないくらいぐっすり眠っているので、ニタはクグレックのいる部屋に戻って来た。
昨晩は一人ぼっちだったクグレックはこうやってニタと一緒に居られるのは嬉しかった。
「まぁ、ニタもアニーの面倒を見るのは大変だったけど、ククも大変だったよね。あのクソバカ男に散々振り回されてさ。」
「…うん。そうだね、すっごく振り回された。」
主に感情面で。
薬に侵されたハッシュの口から紡ぎ出される熱烈な愛の言葉は、クグレックの心を大いに動揺させ、『恋』を錯覚させた。しかし、本当に錯覚だったのか。
「ねぇ、ククはそれでも、まだあのクソバカ男のことが好き?」
ニタはにんまりとした表情で、クグレックに質問した。
クグレックは俯き、頭の中でハッシュへの恋心を審議し始めた。
だが、頭で考えても答えは出て来ない。好き、とも言えないし、好きじゃない、とも言えない。