はじまりの旅
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森の清廉とした静かな香りが鼻に付き、クグレックは目覚めた。苔生した冷たい石畳の地べたに伏していたようだ。体は落ち葉に包まれている。落ち葉がまるで布団のように被さっていたので、少しだけ寒さが凌げていたような気がした。ただ、衣服に覆われていなかった地肌が、落ち葉にかぶれて少しかゆい。
「や、起きたんだね。」
子供のような可愛らしい高い声がした。クグレックは体を起こして振り向くと、子熊のような白い毛に覆われた動物がいた。
ふかふかの白い毛を持った子熊は、サファイアのような青いつぶらな瞳をクグレックに向けていた。純水無垢のあどけない瞳。
「な、なに…?クマが喋った…。」
「クマとは失礼な!ニタは勇敢なるペポ族の勇者なり。」
むっとした表情で怒りの表現を表す白い動物。なるほど、普通のクマであれば、感情を表情で表すことは出来ない。だから、この生き物はクマではない。
「ペポ族…?」
「そう。ペポ族。覚えといて。名前はニタって言うんだ。」
「ニタ…。」
ニタというペポ族の生き物は、表情をころころ変える。さっきまで怒っていたと思いきや、今度は自己紹介をして得意顔に変わった。
「しかし、君はこんな場所で良く寝てたね。一日中寝てたよ。」
「一日中?」
「うん。だから、ニタが落ち葉の布団をかぶせて上げたの。」
「そ、そう、ありがとう。」
クグレックは戸惑いながらも礼を言った。
「まぁ、十分休めたよね。じゃ、行こうか。」
「え、どこへ?」
「え、森の外だけど。」
「どうして?」
「え?だって、ニタはク、『ククレク』のこと守りながら、約束の地、アルトフールに連れて行ってもらえって。」
「『ククレク』…?約束の地?いったい何なの?」
「ニタも『ククレク』ももうこの文明と秩序の大陸では幸せになることが出来ないから、幸せになるためには約束の地、アルトフールを目指すしかないんだって。ううん、ニタも『ククレク』もアルトフールに呼ばれてるから、行かなきゃいけないんだって。約束の地の場所は『ククレク』が知っているって、メイトー様が言ってたよ。」
クグレックははっとして自分の体を見渡す。彼女はここに来る前、自身で放った火事に巻き込まれて、そのまま息絶えたはずだった。死後の世界にクグレックはいるのだろうかと混乱した。
「ニタ、約束の地って、死後の世界のこと?人が死んだら、みんなそうやってあなたが案内してくれるの?」
「は?何言ってるの?あの火事の中、『ククレク』は生き残ったんだよ。メイトー様とエレンが生かしてくれたんだよ。」
生き残った。クグレックは死ねなかったことにひどく落胆した。祖母のいないこの世界など、興味がなかったというのに。
「『ククレク』、行こう。」
ニタは自身の手、いやピンクの肉球を差し出す。ふかふかの白い毛に包まれたぷにぷにの肉球に、クグレックは思わず手を差し伸べたくなったが、頭を振ってそれを拒否した。
「…『ククレク』。」
「…悪いけど、私は別に生きたいとも思ってないし、この先の幸せにも興味はない。だから、別に約束の地に行く義理は私にはない。もう一度死なせて。」
ニタは手を差し出したまま、静かにクグレックを見つめる。サファイアのような青い瞳は、静かにクグレックを映し出していた。彼女が生きていることすら忘れてしまう位に無機質な蒼に輝いていた。
「なら、『ククレク』は約束の地で死ねばいい。」
ニタは静かに言い放った。
「ニタは約束の地に行きたいんだ。『ククレク』は今死にたい?ニタは『ククレク』が死ぬのは止めないよ。でも、今死ぬのはやめておくれ。目覚めも悪いし。最後の仕事だと思って、ニタを約束の地まで連れて行ってよ。」
ニタは、ぷにぷにとした肉球でクグレックの手を掴んだ。
「約束の地に着いたら、死んで良いから。それまでちょっと頑張ってくれない?」
クグレックは、なるほど、と思った。ニタのために約束の地へ向かう。最期くらい誰かの役に立つのも悪くないな、とクグレックは思ってしまった。彼女は本当は誰かのために動きたかった。
あの火事でクグレックは死んでしまったのだ。だから、クグレックはニタと一緒に約束の地という死後の世界へ向かう、と考えれば苦痛ではない。これから向かうのは幸せの旅路ではなく、死への旅路なのだ。
クグレックは立ち上がった。体のあちこちがギシギシと痛かったが、最終的には消えゆく身。気にするほどでもない。
「分かった、ニタ。一緒に約束の地に行ってあげる。」
ニタは両手を上げて「やったぁ!」と良い、ぴょんぴょん飛び跳ねながら歓喜する。「やったやった!」と言いながら、飛び跳ねるだけでなく、次第に右へ左へ移動しだし、まるで踊りを踊っているようだった。
「あ、あと、私の名前は『ククレク』、じゃなくて『クグレック』だから。」
ニタはぴたりと動きを止めると、不思議そうに首を傾げる。
「く、くくれーく?」
「クグレック。」
「そんなの良く分からん!ククで良いでしょ。」
そう言ってニタは大層ご機嫌な様子で再び不思議な踊りを舞い始める。
クグレックは自分の名前を『そんなの』扱いされて、何とも言えない気持ちになったが、楽しそうに踊っているニタを見たらどうでもよくなってきた。彼女は初めて愛称を貰った。能天気で自由なこのクマのぬいぐるみ風情がクグレックのことを『クク』と呼んでくれたことが、クグレックには少しだけ嬉しく感じてしまったのだが、その理由は彼女には良く分からなかった。
「さぁ、クク、森の外に出るよ!」
ニタはくるくる回りながら、クグレックに声をかけた。
クグレックは、その後を追おうとしたが、ふと気になったことを思い出し、立ち止まる。
「ニタ、その前に私、マルトの村に行きたい。」
クグレックは、確認したかったのだ。彼女が死んだのは夢だったのか現実だったのかどうか。
ニタは、ぴたりと踊りをやめると一言「いいよ」とだけ言った。