夜の鳩
痺れる両腕を撫でながら部屋に入った宮本杉都の内耳に行列する、蟻のような音楽が侵入する。
いつもの事だ。
従兄弟のピアノは杉都にとって、いつ始まりいつ止むのか知れない。そのくせ、止んだ直後から再び始まりを期待させるのだったが杉都はいつも、耳の奥で同じフレーズに伴奏されながら、日々を過ごした。だが、そんな1日ももうすぐ終わりだ。
北から二番目のベッドに腰を下ろして杉都は、その瞬間が来るのを待ち望んだ。唐突な鳩時計の間延びした鳴き声の闖入だけが、杉都の耳を従兄弟のピアノから解放してくれる、唯一のきっかけだ。十三回の呟くような鳩の声。
しかしこの日、ベッドに座っていた杉都の耳に鳩の声は聞こえてこなかった。内耳ではあの音楽が途切れなく流れつづけた。いつしか杉都の体はその音楽に支配されて、身体が左右に正確なリズムを刻みはじめた。慌てて室内を見渡した。今まで、一度も乱れていた事のなかった南から二番目の簡易ベッドのシーツが粘つく、染みがにじみ、枕にはまるで誰かが息を押し殺して顔を押しつけていたかのような面相を陰刻している。その上に鳩時計が、無残にも散乱していた。そして一番南のベッドに、この惨状を前に頭を抱えるもう一人の従兄弟が座っていた。
「一体何があったの?」
杉都はピアノの従兄弟を牽制しながら、南の従兄弟に尋ねてみた。しかし、杉都はこの自分の質問が明らかに、あのピアノ伴奏の旋律に成り果てている事に気付いていた。抑揚の無い感情ののらない期待も不安もないただの音として、杉都の言葉は部屋の空気を震わせているだけだ。そして南の従兄弟は、その同じ伴奏で後悔を、堂堂巡りさせていたのだった。
「修理するつもりだったのさ。兄さんは」
いつのまにかピアノを離れた従兄弟が北端のベッドに膝をついて、窓を開け放しながら言った。窓際に迫る竹林が窓と窓との隙間に殺到した。弟は室内に入りこんだ竹をつまらなそうに手折っては捨てていく。闇を鷲掴みにして捨てているようだ。それでも室内には確実に闇が侵入しおおせ、ランプの仄かな明かりなどでは到底抗いきない夜が満ちていく。竹の葉擦れの音までもが、杉都の内耳をそよがせ、あの伴奏に沿って和声を奏でていた。
兄は作り物の鳩を抱いてむせび泣いている。それすらも、伴奏と葉擦れの和声を乱すことはなかった。
「あの時計を修理するなんて誰にも出来ない。そんな事、君にだって分かっていた筈じゃないか」
杉都は自分の言葉があまりにも冷たく、こだまするのに寒気を感じながら、その原因を作ったのが従兄弟(兄)であり、根本的には従兄弟(弟)の責任なのだという苛立ちをおさえられずにいた。
「兄さんはね。もう止めたかったのさ。こんな生活から抜け出したかったのさ。だから時計をいじった。僕は兄さんを止めることだって出来た。でもそうしなかった。僕だって、抜け出せるものなら抜け出したいとずっと思っていたんだから」
弟はぴしゃりと窓を閉めてピアノの方へ歩いていった。閉ざされた窓に数本の竹が挟まった。その断末魔の痙攣は、まるで、室内に潜んでいる夜を手招きしているかのようだった。カサリカサリという葉擦れの音は、言うまでもなく音楽を乱しはしない。
「何故、自分で何とかしようとしなかったんだ。君には兄さんの……」
「分かっていたさ!」
杉都の言葉を寸断して叫んだ弟はピアノの共鳴蓋、を思いきり殴りつけた。するとピアノはあっけなく崩れ落ちた。黒い残骸の中には、ピアノ線も鍵盤も見当たらなかった。
「駄目なんだ。こんな事をしたって、時計を壊したって駄目なんだ」
弟は北端のベッドに突っ伏して泣きじゃくり始めた。杉都はそちらに歩み寄ろうと腰を浮かせた。その時、背後から人のものとは思えぬ咆哮と共に、兄が杉都を飛び越え、次々とベッドのスプリングを軋ませながら弟の背後に着地した。手には鳩時計の鎖分銅を持ち、パジャマの胸ポケットからは、嘴の折れた鳩が顔を覗かせていた。兄は分銅を振り回し、窓ガラスを打ち砕き、ピアノの残骸を撒き散らした。分銅の圧倒的な回転はベッドに突っ伏した弟の後頭部を掠めていた。
「もう止めろよ」
杉都は静かに回転の中心を見据えた。分銅の風切音ですら、杉都にはただ一つの音楽に収斂して聞こえた。兄は今にも崩そうな表情で棒立ちになった。その首に分銅が幾重にも巻きつき、最後に額を直撃した。
「兄さん!」
弟は兄の胸にすがった。杉都は二人を見つめていた。昏倒した男の耳にもうあの音楽は聞こえない、だろう。結局あいつはこの生活から抜け出す一つの方法を実行したのだ。
「君は、どうするの?」
杉都は疲れ果てたように両手で顔を覆ったまま尋ねた。弟は兄の胸から、壊れた鳩を取り出して、しばらく眺めていた。夜に葉擦れと弟の嗚咽が旋律を奏でる室内で、杉都はただ座っていた。
やがて弟の口から漏れ出る言葉が室内に溢れ始めた。
「鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け。鳴け」
弟の手のひらで壊れた鳩は横ざまに倒れたまま、空虚な瞳を弟に向けていた。杉都は頭を膝の間に挟みこむほどに深く体を折り曲げ、耳を覆った。だが、声はわずかな隙から杉都の中に入りこんできた。耳といわず、鼻からも、眼からも、身体中の毛穴からも、声は入りこんだ。全身に鳥肌を立て、杉都は思いきったように立ちあがった。
「無駄だ。その鳩が鳴いたのはずっと昔の事だ。僕達はその鳩の声を聞いたことなんてなかったのかもしれない。でも鳩は僕達の平安の印だった。君が反抗していたのは、そんな、曖昧な伝説でしかなかったのさ。僕はもういい。僕の内耳には君の呪文ですら美しい旋律に聞こえる。だが、君にとっては、どうなんだろうね」
「鳴け」と繰り返していた弟は、ぼんやりと立ちあがった。そして、割れたガラスから手を差し伸べて壊れた鳩を夜に晒した。
「飛べ。飛べ。飛べ……」
「違う。飛ぶのは君だ。君が世界に平安をもたらす鳩になるんだ。君が、君こそが!」
杉都は弟の背中にむかって叫んだ。その刹那、弟の身体は夜に絡め取られて見えなくなった。壊れた鳩も、風に浚われていった。
杉都は誰もいなくなった室内で、かすかな鳩の声を聞いた。
おわり