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突然の出張

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『突然の出張』

ケイコは若手の中で一番のやり手営業だ。もっとも若手といっても、もう三十を超えているが、まだ二十代といってもいいほど見た目は若い。そのうえ自分でもある。言い寄る男たちはたくさんいるが、今は仕事が面白くてたまらないので、男関係はご無沙汰の状態である。そんな彼女が、急遽、同期のタカシと一緒に山間のA市に出張することになった。車でもよかったが、タカシが「電車がいい」と言い張ったので、電車で行くことになった。 A市と外部を結ぶ電車は一本のローカル線だけである。
出張した日、朝から天候は悪かった。昼近くになると豪雨となり、山間のA市はたちまち雨水であふれ、ローカル線が不通になってしまった。そんなことも知らずに、仕事を終え、二人は帰るために駅に着くと、駅員線が不通を告げていた。ケイコはその駅員に詰め寄り、「どうしても帰りたいの。何とかならないの?」と怒った。
駅員は困った顔して、「雨が止まないと復旧の見通しが立たない」と返答した。
ケイコは今さらながら来るべきではなかったと後悔した。
営業部長がケイコに出張を命じた。今回の案件が成功したら、営業主任に命じると約束してくれたので、同行するタカシが嫌いだったが、しぶしぶ承諾したのだ。ケイコはタカシを必要以上に毛嫌いしていたのかもしれない。なぜなら、どこか父親に似ていたから。私生活はルーズでギャンブル好き。上昇志向がなく、自由気ままに生きている。父親は可愛がったが、母親とそりが合わず出て行った。ケイコが八歳のときである。

「こんなひどい雨、電車は停まっているし、無理して帰っても着けるかどうか。それよりホテルに泊まろう」とタカシが提案した。
何という提案だろう。でも、言っていることに無理はないとも思ったが。
ホテルはあいにくとツインの一部屋しか空いていなくて、そこで二人で泊まるはめになった。 ケイコはタカシから何もしない約束を取り付けた。同じ会社の人間であり、何か間違いが起こりうることは想像し難かったが、それでもその約束を求めた。
タカシは素直に「YES」と答えた。
ケイコはずっとタカシのことが気になってなかなか寝付かれなかった。やがてタカシの微かな寝息が聞こえてきた。すると、ケイコも急に眠くなって眠りに落ちた。
 いったい、どれほどの時間が経ったのか。 ふと、そばにタカシがいることに気づいた。
「何もしない約束よ」と彼を突き飛ばそうとしたが、反対に強く抱きしめられた。
「ずっと前から好きだった」とタカシは告白した。
「嘘でしょ! それは私を抱く口実でしょ」
「悪い?」
タカシが被いかぶさってきた。
「止めてよ」
「嫌いなのか? それとも処女か?」
 数か月前、仕事のことでケイコはタカシを罵倒したことがあった。タカシはそのことをもう忘れたというのか。
「そんなことも分からないの?」とケイコは冷めた口調で言った。
「女は嘘をつく。好きなのに嫌いと言う。嫌いなのに好きと言う。本当のところは自分自身でさえ分からない。それが女というものだ。違うか?」  
ケイコは本当のところはどうなのか考えた。本当に嫌いのか。考えれば考えるほど、よく分からなかった。ただ、タカシは父親に似ている。初めて会った時から、そう思った。父親は小さいとき可愛がってくれたが、大きくなって、自分と母親を捨てて別の女に走った。母親はあんなろくでなしと別れてせいせいしたと言った。それが負け惜しみのセリフであることを大人になって知った。本当は好きだったことも。
タカシは不思議なほど優しく愛撫した。まるで恋人のように……ケイコは男運がなかった。見かけだけの男ばっかりだ。そのうえセックスも下手。男はそんなものだと思っていたが、タカシは真逆だった。見かけはろくでなし。でもセックスはとてもうまい。大切なものを扱うように優しく愛撫した。
「ずっと前から好きだった」
タカシはケイコの耳元で囁いた。目を閉じて、その言葉を聞いていた。心地よく響いた。既にケイコはタカシを受け入れていた。オスとしての行為が果てると、タカシは直ぐに眠りについた。あまりの無防備さにケイコは笑った。そして彼と同じベッドで眠りについた。

朝、ケイコが眠りから目覚めると、タカシはもう部屋にいなかった。
着替えて、部屋を出て、ホテルのラウンジに入った。タカシは既にテーブルについていて朝食をとっていた。 ケイコが目の前で立つと、タカシは何もなかったように、「おはよう」と言った。
「何もなかったよね」と言わんばかりである。ケイコもとやかくいう気はなかった。 昨夜、もう一人のケイコがいた、それだけのことである。もう一人のケイコはセックスの喜びを素直に感じる大人のケイコであり、会社の戦略はどうあるべきか喧々諤々と議論しているケイコではない。
「そうだ。電車復旧したようだから、帰ろう。会社に午後には戻れると電話しておいた」
「分かった」 とケイコは答えた。

ホテルを出た。
風は強いが、雨は止んでいた。どうやら昨日の豪雨を降らせた雨雲は風が吹き飛ばしたようだ。
「昨日は最悪だった。でも雨は止んだ」
そう呟くタカシをケイコは苦々しく眺めた。 なぜ、この男に抱かれたのか。父親に似ていたか、それとも優しくセックスをしてくれそうだったからか。けれど、今となってはどうでもいいと思った。一時の戯れと心の整理が出来ていたから。

並んで歩いた。特に会話することなく駅に着いた。
改札を出てホームに立った。
風が容赦なく吹き寄せた。
ケイコは風を感じていた。風は心地よく体を通り抜けていった。
「船みたいだ」とタカシが言った。
「何が?」
「スカートが帆船の帆のように見える」
確かに風が吹き寄せるたびにスカートの裾は帆のように膨らんだ。
ケイコは何も言わず微笑んだ。
「私、決めたの」
「何を? まさか、たった一晩のことで俺の嫁になるとか言わないよな」とタカシは言った。
「それって、タカシ流のプロポーズなの? でも、残念ね。そんな気は全くないから。決めたの」
「何を決めた?」
「あなたの上司になること。帰ったら楽しみね」とケイコは笑った。
タカシの頭の中が真っ白になった。かろうじてケイコが一番出世するという噂を思い出した。
列車が来た。
「別々に座りましょう」と言ってケイコは先に乗った。
作品名:突然の出張 作家名:楡井英夫