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ぱかぽんと
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novelistID. 55710
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風船

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冷たい風の吹く正午前の往来で、男は一人の印象的な少女を目にした。少女は5、6歳位で、背丈は男の半分にも満たなかった。そしてどこにいても目につくような、真っ赤なコートを羽織っていた。少女は顔を天高くに向け、右腕を精一杯に伸ばしぴょんぴょんと飛び跳ねていた。とても印象的で目につく真っ赤なコートを着た小さな可愛らしい少女が、空に向かって飛び跳ねていたら誰しもが少女の視線の先を気にしない訳にはいかなかっただろう。そこには軽く人集りができていた。そして皆、少女と視線の先を共有していた。
 男も例外にもれず顔をあげた。そこには少女のコートと同じような風船がひとつ漂っていた。比重の軽いガスを詰められた風船は恐らく少女の手から溢れ、空に向かって舞い上がったのだろう。そして風船は偶然にも、建物の袖看板を留める金具のようなものに引っかかってその場に留まっていた。なるほど、と男は納得したように右手を顎に添えた。そしてそこにいる他のものと同じように、その風船を少女のためになんとかしてやりたいと思ったが、その風船の位置がどうしようもなく高い所にあることを認めざるを得なかった。袖看板は5階建のビルに備えられていたが、ビルのどの窓からも人の手が届きそうな位置にはなかった。往来のざわつきを聞きつけて、ビルの窓から顔をだした人がいた。そのうちの一人が箒を持ってきて、窓から懸命にそれをのばして風船を取ることを試みたが、あと2メートルは足りなかった。しかも箒では例え届いたとしても、風船を絡め取れるかと言われれば至難の技にも思えた。箒を持った人は窓から可能な限り身を乗り出したが、それ以上は転落の恐れがありそうで、ビルの中のもう一人に笑いながら止められた。少女の真っ赤な風船は人一人の命を賭けるほどの物でもなかった。
 ビルから取れないのなら外から梯子かなにかを掛けて取りにいく他方法は無さそうだった。まさか、消防局に電話して梯子車を呼ぶわけにはいかない。だれか手頃な、舞い上がった風船を取りに行くのに丁度良い梯子を持ち合わせていないだろうかと、人々は各々の顔を見合わせた。勿論、そんな物を持ち歩く人はいなかった。少女と少女の風船の為に立ち止まった全ての人がなんとかしてやりたいと考えてみたが、最終的には諦観の空気に包まれていった。
 男は慰めるように少女の近くに歩み寄り、少女の小さな肩に片手を置いた。少女は幼気な円らな瞳で男の顔を覗き込んだ。少女は特に悲しんでいる訳でもなく、愚図ついてもいなかった。その瞳には期待が込められていた。まるで、大人たちならこの状況を打破できるだろうと訴えかけているような目だった。その目を見れば、その期待に応えられない自分がなんと愚かしく感じられることだろう。男にできることは、なんとも言えない微妙な微笑みを浮かべることだけだった。いや、解決する方法は他にもあった。少女の為に、誰かが新しい風船を買ってあげれば良かった。男にもその解決法が頭に浮かび、それを口にしかけた。だがそれは寸でのところで止めた。彼女の望みは風船を手にすることではない。彼女が手放してしまった、あの高い所にある赤い風船を取り戻すことなのだ。少女の期待とは、大人達がそれを実現することなのだ。
 しかし、その期待には誰も応えられそうにはなかった。やがて、人集りは散り散りになり始めた。皆、その場を離れる時二言三言の言い訳を小さく呟いた。「あれはどうしようもないよ。」と誰かが言った。「ちゃんと持ってなかったのが悪い。」と少女に責任を問う者もいた。「いい教訓になるよ。」とまとめる者もいた。いい教訓、か。と男はその言葉を胸の内で反芻した。大人は、大人であるというだけで色々な物を手放してしまう。そしてそれは大人であるならば諦めなくてはならないことだった。男も色々な物を諦めた。自分の夢を捨てた。自分の時間を捨てた。仕事が忙しくて、自分の好きだったことも解らなくなるくらい構わなくなった。そしてそれらを取り返すこともなく、全部に諦めという名のシールを貼ってゴミ箱に捨てた。昔買ってもらった少女と同じような風船のことも忘れていた。宙に浮くただのゴムの塊を大切していた自分を忘れてしまった。そんな、忘れてしまった過去の自分が目の前にいた。なにも諦めない、なんでもできると思い込んでいたあの頃の自分を少女の中に見た。だから男は心の中で泣き、少女を助けたく思った。この気持ちだけは捨てたくなかった。けれども、どうしようもなかった。俺の手はそんなに長くないし、俺の足は急に伸びたりしないのだ。今俺は、少女に対してまったく無力なのだ。
 冷たい風が往来を吹きすさび、風船はその都度虚しく揺れた。やがて、一人の女性がやってきて、少女の名前を読んだ。彼女は恐らく少女の母親なのだろう。少女は母親に手を引かれ、名残惜しそうにその場を去って行った。その目は歩きながらずっと風船の方を見つめていた。男はその姿を後ろから、少女と母親が角を曲がって見えなくなるまで見守った。二人が消えて、男は風船に視線を戻した。 
 また冷たい風が吹き、その拍子に風船は看板から外れた。風船は風に乗って空高く舞い上がった。不規則に揺れながら、やがては見えなくなった。注視する物の無くなった虚空を、男は考え深げにしばらく見つめていた。まるで、少女と風船と自分の感傷という一連の出来事に一つの題名をつけようとしているみたいに。
「あれはどうしようもないよ。」
 男は独り呟いた。
「ちゃんと持っていなかったのが悪い。」
 男は独り呟いた。
「いい教訓になるよ。」
 男は歩き出し、寒空の下小さく肩を震わせた。
作品名:風船 作家名:ぱかぽんと