女性と歩く(ほんとうに女性なのだろうか)
それは艶やかで繊細で、それでいて豊かな髪の毛だった。鼻は小さくすっと尖っていて、それが彼女の知性の象徴のように思えた。
俺は彼女と歩いていた。
どこまでも、どこまでも歩いた。最初市街地を歩いていたような気がしたが、いつの間にか住宅地に入り込み、道幅は狭くなり、いつの間にか、まるで迷路のように入り組んだ路地に入り込んだが、それでも構わずひたすら突き進んだ。ふと番地を確認すると、聞いた事も無い、どこの国のものかわからない、それでも確実に日本のどこかだろうという地名が見えた。
どうやら、俺と彼女は完全に迷い込んでしまったようだ。遠くからセミの声がけたたましく聞こえる。稲光りのように。
「ねえ」
「何?」
「道に迷ってしまったみたいだけど、どうしようか?」
「どうしようも何も、どこを歩いたってもう道なんてわからないよ。その内大通りに出るかも知れないから、そのまま気の向くまま歩いていこうよ」
そうかと返事だけしてみたが、きっとその大通りも俺らの知らない道に違いない。
彼女は何で俺とこんな見知らぬ路地を歩いているんだろう。細い階段を上ったり降りたりしながら、ふと俺は疑問を持った。この子はそもそも誰だったっけ。なぜ、彼女は俺の事を知っているんだろう。俺もこの子の事を知っている気がする。豊かな髪。どこか投げやりな眼。それでいて何も失っていない表情。匂い立つ肌。首すじ。なんで俺は、こんな綺麗な子と歩いているんだろう?
彼女は静かに答えた。
「そんなの私にだってわからないよ。あなたの事なんて何も知らない」
「それじゃあ、何か一緒にいく用事でもあったんだろうか?」
「無いよ。だって、さっきまで知らない人だったもの」
「だった。」
「もう知らない仲じゃないでしょ?一緒に歩いているんだもの」
そう言いながら彼女は俺の顔をみて、にこりと笑った。
それから彼女は俺の唇を貪った。補食するかのようなキスだった。唇の裏側と舌から、唾液の滑りを感じた。俺は彼女の髪を頬に感じながら、視線の置き所を探していた。吐息が熱く、粘り気を帯びていた。
しばらくして、彼女は唾液でたっぷりと潤わせた唇を俺の口から離した。
「受けちゃうんだね。」
「受けるしか無いじゃんか。びっくりしたよ」
「ビックリなんてしてないくせに」
「そんな事無いよ」
「あなたはね、女の子からの欲の全てをかたっぱしから吸着しちゃう人なんだよ。それこそ生理用品のように。貴方は女の、「液」の、はけ口として生まれてきたんだ」
「何を言ってるのかわからないよ」
「わからないだろうね。今、周りに女が居ないんだもの」
俺は何人かの知り合いの女性の顔を思い浮かべた。
「いなくは無いと思うけど」
「でも、入ってこないでしょ?閉じてるもの。閉じてたらいくら便利なはけ口を持ってたって女は入ってこない。拒絶をしているのは貴方」
女は俺にしなりともたれかかりながら、その手を俺の服の中に侵入し、わき腹の肌と肉の感触を味わっていた。爪が俺の皮膚をゆっくりと、なだらかにこすっている。むず痒い感覚が背中に広がっていく。
「で、君は今まで会った事も無い俺になんでこんな事をしてるわけ?」
「そうよ。だって、そうするべきだと私が思ったんだもの」
「ねえ。ここは外の普通の住宅街なんだよ?」
「普通の住宅街。ね。誰もいないし、道も複雑だし、そもそもここは住宅街なのかな?目の前に広がっているのは、果たして街なのかな?ひょっとして、ここは貴方の想像している所では無いのかも知れないよ?」
どこでも無い所なのかも知れないよ?
俺は蛇にでも化かされているのかも知れないと思った。
「あなただって、何もかもが、したいでしょ?」
彼女の手が俺の服の中で蠢き、肩甲骨をゆっくりとなぞっていく。
「それは、言えないよ」
「どうして?」
「それはここが外で、俺は大人で、君とはつきあってもいない、誰ともわからない状態だからだよ。今の俺の肉欲は果たして正当なものなのか、よくわからないんだ。ただ、ただ、わからないだけなんだよ」
「私はあなたを食べたい。嗅覚と、舌と、指と、皮膚で、あなたの肌も肉も性器も、神経もリンパ節も、欲も、希望も、未来もすべて食べてしまいたい。それは、同時にあなたが私を食べることにも繋がるんだ。あなたと私は、お互いを貪り合って、どこまでも混ざり合う機会を得ているのよ」
「俺が納得さえすれば?」
「そう。あなたが納得さえすれば」
「どこまでも?」
「どこまでも。ねえ、未来を溶かしてしまわない?」
それはとても魅力的な誘惑だった。
そして、その時俺は初めて死の縁にいる事に気づいた。
「もし」
「何?」
「俺が君と溶解せずに、ただ手をつないで、昼も夜も、ご飯を食べて、お互いに本を朗読して、そして夜が来たらおやすみと言って眠りについたら、それは一体何を生むんだろう」
「それはね、私の役目ではないの」
「そうだよね」
俺はしばらく黙ってからこう言った。
「改めて、今日は良い天気だと思わないか」
彼女は口を歪めた。
本当は、彼女の髪にふれたかったし、彼女を貪りたかった。でも、俺は見つけてしまったんだ。そこの曲がり角の先に、バス停がある。そしてバスに乗ってしまえば、未来の溶解から逃れる事が出来る代わりに、この、髪の豊かで魅力的な彼女は形も無く消え去ってしまうだろう。
俺は彼女の黒い瞳をみて、それから抱きしめた。彼女の柔らかな体を、甘ったるい匂いを、俺の細胞すべてが情報として写し込めるように、心の底から彼女を抱きしめた。たとえ君がいなくなっても、俺の脳が劣化しても。彼女のすべては、今、俺の体内に記録された。記録するんだ。俺はずいぶんと長い間、彼女を抱きしめ続けた。耳元に、彼女の陶酔したため息がずうっと吹きかけられていた。
俺は彼女から離れた。
バスが来た。俺は乗り込もうとする。最後に後ろを振り返って「ありがとう」と言った。
彼女は、その時初めていたずらっ子のような笑顔を見せて「馬鹿」と言った。それから、こんな事を言った。
「次は、幻影に、巻き込まれないように。見えないものに、取り込まれないように。あなたは頭が悪いから、少しくらいは覚えておかないとダメだよ。」
俺はバスの座席に座り、彼女がいた場所と反対側の道路をずっと見ていた。バスは発車する。バスは、新しいところへと俺を連れてっていく。
遠くから、セミの声が響いている。
作品名:女性と歩く(ほんとうに女性なのだろうか) 作家名:草_