新築まで
「受け入れればいいのさ。今がこのようにあるという事を受け入れさえすれば」肱野は両親の寝息と、読書を続ける妹のページを捲る音とを聞きながらぼんやりとそう思った。そして、おもむろに起き上がり、妹の背中をちょっと押し、母親と父親とを順番に跨いで外へ出た。雨が降り始めていた。夏の間の、テレビのボリュームを30にしても全然無駄だった雨とは違う、ひっそりと降る雨だった。時折思い出したように鈴虫の音が響く。返事の無い虫の音は思い出したように鳴りはじめると、唐突に消える。この雨の庭で、ただ一匹で鳴いているのが信じられない、きっと何処かで歌を返してくれる仲間がいる筈だ。そんな戸惑いと虚しい確認を繰り返す鈴虫の音が、バイクの爆音に書き消される。肱野はため息をついてトイレの電気を付ける。一瞬、青白い光がスパークして、再び闇が夜の庭を閉ざした。その一瞬の光の中、肱野ははとんど出来上がっていた新居の全てが見えたような気がした。いや、新居だけではない。この裏庭も、プレハブも その中で暮らしている見知らぬ顔の家族の様子までもが見えた気がした。そして覆いかぶさる草むらの中、水滴に戸惑いながら濡れた羽を震わせるる鈴虫の姿まで、くっきりと見えたような気がした。
ぼんやりとトイレに入る 足元で蛆が数匹潰れ 暗闇の名を蝿が飛び交う音が聞こえた。自分の小便が、便槽を打つ鈍い音にも次第に強くなる臭いにも、肱野は何も感じなかった。ズボンを上げて大きく伸びをした時、首筋にチクリとした痛みを感じ、その次の瞬間に激しい衝撃が背筋を一瞬の内に駆け降りた。
「無意味な死だ」
肱野は前のめりに倒れた。
出棺はプレハブからだった。