走れ! 第九部
何だかしょんぼりした顔で、涼子さんがおれに言う。
「夕方頃に秋田行きの特急があったはずですが……。どうしたんですか?」
「うん……。急に仕事が入って、船橋に帰らなくちゃいけなくなって……」
ショックじゃなかったと言えば嘘になる。また一緒に涼子さんと新幹線に乗って帰れると思っていたからな。
「時刻表なら壁に貼ってあるよ」
法子伯母さんにそう言われ、涼子さんは壁に貼ってある時刻表を見た。
「あと一時間半ぐらいか……」
そうつぶやくと、涼子さんは慌てたように健太伯父さんの家に戻っって行った。荷物をまとめて来るのだろう。それからしばらくして、例の大きなカバンを抱えて戻って来た涼子さんは、何だか残念そうな顔をしていた。
「では、行きます。皆さん、お世話になりました」
涼子さんが力なく言う。
「おにぎり作っておいたから、帰りの電車で食べな」
法子伯母さんは、アルミホイルで包まれたおにぎりの入ったビニール袋を涼子さんに手渡した。
「ありがとうございます!」
涼子さんはそのビニール袋を受け取ると、大きなカバンの中にしまい込んだ。そして、おれの方を向くと、
「ジュン君、駅まで送ってってよ!」
と言った。それで、二人で駅まで行くことになった。駅まで向かっている間、お互いに無言だった。少し前までは太陽のごとく明るかった涼子さんの表情は曇っていた。そして空もまた、少しずつ曇り始めていた。おれだって、こんなに早く涼子さんとのお別れの時が来るだなんて思ってもいなかったから残念だった。話したいことだってたくさんあったのに……
駅にたどり着き、
「切符買って来るね」
と言った涼子さんのその言葉には、やっぱり今までの元気はなかった。おれは待合室の椅子に座り、切符を買っている涼子さんの後姿を眺めていた。その背中が、何だか寂しそうだったよ。
寂しそうな顔で切符売り場から戻って来た涼子さん。
「もうすぐ来るみたい」
と、静かに言う。改札口にいる係のおばちゃんに断って、おれも涼子さんと一緒にプラットホームへ行った。近くの踏切の警報器が鳴ると、白い特急列車がやって来た。碇ヶ関駅に滑り込んで来ると、ゆっくりと停車し、ドアが開いた。
「ジュン君……、またね……!」
振り返ってそう言った涼子さんのその言葉には、寂しさを感じた。
「涼子さん、ありがとうございました」
「これ……」
涼子さんが小さい紙袋をくれた。見ると、弘前駅の土産物売り場の袋だった。
「あげる!」
おれがその紙袋を受け取ると、後ろの車両の方から車掌さんが笛を吹く音が聞こえ、ドアが閉まった。ゆっくりと列車が動き出して行く。涼子さんはずっとデッキにいて、最後に涼子さんは、笑顔で手を振ってくれた。その笑顔は、今まで見た涼子さんの笑顔の中でも一番綺麗で、鮮やかだった。
プラットホームに一人だけ残ったおれ。さっき涼子さんからもらった土産物売り場の袋の中からりんごの形のキーホルダーを取り出した。かわいらしいものだった。それを取り出した時、何やら折りたたまれた紙がふわりと落ちた。拾い上げて広げてみると、それは手紙だった。
〈ジュン君、本当にありがとう!夢に向かって走れ! 岩本涼子〉
その一言と、涼子さんの連絡先が書いてあった。涼子さんらしい言葉の書いてある手紙を眺めているうちに、特急列車の姿は、すでに見えなくなっていた。誰もいない碇ヶ関駅に、おれだけが立ち尽くしていた。ひと夏の切ない想いを噛み締めて……
上本は酒が入ると多弁になるが、今日はいつになく多弁だった。お互いに何杯もの酒をおかわりし、注文した一品料理をつまみながら上本は語り続け、俺もその話に聞き入っていた。その涼子さんとのその後についても聞きたかった。けれど、上本の左手の薬指で光っている銀色の指輪をそっと見て、あえてそれは聞かないでおいてやった。これはひょっとしたらひょっとするのかもな。俺は心の中で思った。
いずれにしても、俺達はもういい具合にでき上がっていた。しかし、
「さて、どうだね、中田さん。デスペラードにでも行こうか!」
と、上本はまだ飲む気でいた。デスペラードとは、この近くにある盃横丁という飲み屋街に店を構えるバーだ。上本の行きつけの店で、俺もたまにこいつと行く。今日は懐具合も決してよくなく、この店だけで済ませたかったのが本音だけれど、しかし、久々に会っていい話を聞かせてもらったんだ。上本に付き合うことにしよう。