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走れ! 第三部

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「すいません。お待たせしました……」
「宿がすぐ近くだから、早く来ちゃった!さあ、散歩に行こう!」
 涼子さんがそう言い、二人で海沿いを歩き始めた。涼子さんはさっきまでの大荷物ではなく、肩掛けカバンの一つで来ていた。
 海沿いの道路をひっきりなしに行き交う車の音とか、時々、東北本線を走る列車の音を聞きながら海の近くを歩いていると、
「海釣り公園だって!行ってみよう!」
 と、涼子さんが道沿いに「海釣り公園」と書かれた看板を見つけたので、行ってみることにした。行ってみると、そこは海の上に釣りをする台が設置されている釣り場だった。先客もたくさんおり、何だか面白そうだったので二人で有料の貸し竿を借りて釣りをすることにした。
 目の前の陸奥湾は、西に傾いた太陽の光が海に反射してキラキラと輝いており、本当に綺麗だったよ。釣り糸を海に垂らして魚が釣れるのを待っている間に、おれはカメラを持って来ていたことを思い出し、リュックサックから取り出して目の前の風景を写真に撮った。その写真がこれだよ。
「おお、いいカメラだね!」
 リュックサックにしまおうとしたデジカメを見て、涼子さんが言う。今では当たり前になったデジカメだけれど、当時はまだ珍しい
品だったからな。
「記念写真を撮ろうよ!」
 涼子さんが嬉しそう言ったので、早速、写真を撮ろうとしたら、涼子さんの竿に異変があった。
「あれ、引いてるのかな?」
 そう言って、涼子さんは慌ててリールを巻き始めた。重そうだったよ。ようやく釣り上げたのは、やや小さなアジだった。
「おお、釣れた!」
 そう言った涼子さんの顔は、本当に嬉しそうだった。器用にアジを釣り針から外し、
「さあ、お帰り」
 と、海へ帰してやる。そして、深くため息をつくと、涼子さんは目を細めて海を眺めていた。その顔が幸せそうで、思わず見入ってしまった。だんだんと鼓動が早くなって行った。潮風が涼子さんの髪を揺らし、おれの頬をなでて通り過ぎて行く。言葉にできないひと時だった。このまま時が止まってしまえばと、本気でそう思ったよ。
 結局、釣果はおれも涼子さんもアジが1匹ずつ。二人とも、いわゆる「ボウズ」にはならずに済んだよ。エサもなくなったところで海釣り公園を後にして、また海沿いの道を歩く。涼子さんが眺めのいい堤防を見つけたので、そこに座って休憩することにした。
「いやあ、いい眺めだ!」
 座りながら涼子さんが言った。目の前には一面の海。遠くには島も見える。そんな景色を見ていると、
「うーん、ちょっと温まっちゃったかも知れないけど……」
 と、涼子さんがおれに何やら銀色の缶を寄越した。見ると、缶ビールだった。
「いや……、これは……」
 おれは慌てて突き返した。
「飲めないの?」
「年齢的に……」
「うーん、そうなのか……。まあ、何事も社会勉強だよ!」
 そう言われると妙に納得してしまい、気がつけば缶のフタを開けていた。
「乾杯!」
 そう言って、涼子さんは自分の缶をおれの缶に当てた。恐る恐る、おれはビールを飲んだ。何と言っても、実はこれが生れて初めての酒だったからな。何とも言えない苦い味が口いっぱいに広がった。たちどころに頭がクラッと来たよ。
「なかなかおいしいでしょ?」
「初めて飲みましたけど、うまいですね!」
 おれがそう言うと、涼子さんは、うふふ、と笑った。
「飲まなきゃやってられないよ!」
 涼子さんがそんな言葉を言うものだから、二人して大笑いしてしまった。
 それから缶ビールを飲みながら二人で海を眺め、いろいろと話した。その時、おれはすでにでき上がっていたから、何を話したかは覚えていない。二人の缶ビールが空になった頃、そろそろ日も暮れて来たので、それぞれのねぐらに帰ることにした。
何だか顔が熱いし、目の前の陸奥湾が変に見える。かすんでいるような、ゆがんでいるような、あるいは回転しているような。それで立ち上がったら、よろけてしまった。
「立てる?」
「大丈夫です」
 おれはそう言ったが、実際はそうでもなかった。
「ああ、無理そうね……」
 と、涼子さんがどこか悔しそうに言った次の瞬間、おれは左手に何か温かいものを握っていたんだ。涼子さんの手だった。おれはずっと涼子さんの手を握ってみたいと思っていたけれど、こんな形でそれが実現してしまった。よく考えたら、この時、初めて他人の女性の手を握ったような気がする。
 涼子さんに手を引かれ、おれは宗一郎叔父さんの家まで戻った。居間の座布団を枕にして横になったところまでしか記憶にない。
作品名:走れ! 第三部 作家名:ゴメス