私の読む「源氏物語」ー82-蜻蛉
蜻 蛉
山荘には翌朝、みんなが浮舟の姿が見えないのを、大騒ぎして捜すのであるが、見つからなかった。その騒ぎはまるで物語の主人公の姫が誘拐された朝のようなもので、良く知れたこと故詳しい状況は書かなくても分かるであろう。京から浮舟の母である常陸介の北方が、
「昨日、(祈祷のため宇治の寺に誦経せよなどの)文を持って宇治行かせた使者が、戻ってこないのが気になるから」
と書いた文を持った新しい使者を京から宇治に送ってきた。使者は、
「まだ鶏の鳴いている夜の明けない間に、私を出発させなさった」
と使者が言う。鶏の鳴くのは、一番鳥(真夜中、即ち一時前後頃)、二番鳥(夜中、即ち二時前後)、三番鳥(夜明け前、即ち三時前後)である。話は三月末であるから、日の出は四時五十分前後である。この使者は、「まだ鳥の鳴くになん云々」と言っているから、三番鳥が鳴いている頃に京を出発した。所要時間は一里を四十五分位としても、宇治橘辺に到者するのは五時過ぎ頃であろう。
使いの言うのを聞いて乳母や右近、侍従の女房達は、浮舟が失踪したことを、どう返事をすればいいかと、うろたえ騒ぐ事は当然のことである。彼女が何処に消えたか推量する方法もないので、女房達は、お互に大騒ぎをしているばかりであるけれども、事情を知っているあの右近と侍従とは、浮舟が最近ずっと物を思い詰めていたことを思うと、宇治川に投身したのではないかと思っていた。涙を流しながら母から来た文を開くと、
「貴女の事が気がかりのために、私は、うとうとと眠る事が出来ないせいか、直接には勿諭逢えないが、今夜は、せめて夢にでも逢いたいと思うのに、夢にまでゆっくりと親しく逢う事が出来ず、夢の中で鬼に、不意に攻めかかられて、気分も平素と違って不快です、それで、やっぱり、女二宮(薫の本妻)が貴女を呪う事でもあるのかと、女二宮を恐ろしく思っておあります。薫様の方へ移る日が近づいているのであるけれども、移るまでの間、私のところでお過ごしなされ、あいにく今日は雨が降っていますから明日にでもそうなさい」
昨夜の浮舟の母への返事を開いてみて右近は泣き倒れた。そう、入水でもなされるのかと、私の案じた通りである。だから、鐘の音のなどと、心細い事を独り言で口にしてお出でだった。どうして自分に心の中の少しでも相談されなっかたのか、浮舟の幼いときからお互いに少しも、隠し立てするようなこともなく親密に過ごしていましたのに、この世もこれまでと言う死出の旅に、私を後に残し、せめて死ぬ覚悟を少しも、右近に見せなかったことを思うと辛いと、子供が泣きわめくように足摺をして床をのたうち回る。侍従の女房も、浮舟が何事かを一心に考え込んでいるのは、ずっと以前から見ていたのであるが、決して入水自殺のような大変な事をして、みんなが大騒ぎするような状態になさろうとは、思いもしなかった。だからどうしてこんなことをと侍従も考えられず、悲しみも大きかった。冷静で力となるべき乳母は、右近や侍従達よりも却って、途方に暮れて、何事も考えられなくて、
「どうしよう、どうしよう」
そればかり繰り返して言っていた。
匂宮も浮舟から貰った返書の歌が気になって、浮舟は何を考えているのだろうか。自分を思っているのであるものの 然しながら、自分を、浮気な心であるとばかり彼女は疑うので、何処かに身を隠したのではないかと、思って使いを送った。使いは山荘の総ての者達が泣き喚いているところへやって来て、匂宮の文を渡すことが出来ない、
「どうしたのですか」
とあまりの騒ぎに下働きの女に使者は聞いた。女は、
「主人(浮舟)様が昨夜急死なされてしまったから、皆様方は物も考える事が御出来ずに途方に暮れておられます。頼りになさる薫様も居られず、此処にいる人達はうろたえ慌てて、何かに突き当ってはまごついてばかりです」
使いの者は、この山荘と匂宮の関係を深く知らない男なので、この下働きの女から詳しいことはよく聞かないで、二条院に帰参した。使者は取り次ぎを通じて、宇治の状況を匂宮に知らせた。匂宮は夢の中で話を聞いているように思え、これはおかしな事だ、浮舟が病気であるとも聞かないし、日ごろ悩んでいるとは聞いていたが、昨日貰った返書は亡くなるような様子もなくて、平素よりも却って、述べてある事は面白そうであったものなのにと、匂宮は想像できないので、
「時方宇治に出向いて様子を見て、確実なことを報告せよ」
「あの薫大将が、どんな事であるかわからないが、耳にされた事が、何かあったのでしょう。宿直の夜警をする者の、夜警が怠慢である。などと薫が叱責なされるからと、言うので下仕えの男が出て行くのに対しても宿直の夜警が色々と質問すると言うことですので、何か口実を作って行かなければ、宇治に、私が参ったとして、宇治へ来たことを咎められて、何かの噂が、薫の耳に入る事があれば、当方の秘密の計略を薫が気づきなされる懸念などがござります。そうしてまた、急に浮舟が亡くなりなされたような所は、言うまでもなく騒がしく、その上、葬儀関係の人も頻繁に出入しておりましょうから」「宿直に見咎められるとか、薫に気づかれるとかで、事情がはっきりしなくては、どうしてよいか分からないではないか。考えて明確になる方法を考えた上でうまい工合に口実作って、あの事情を知っている侍従などに逢って、どんな騒動を、下働きの女が文を持って行った使者に言ったのか、尋ねて見てくれ。下々の者は、間違いを言うものである」
匂宮が気の毒な気持を察して、時方は夕方宇治に向かった。
時方のような身分の低い者は、進退が簡単で、自由であるから僅かの時間で宇治に到着した。降っていた雨は少し収まったが木幡山の荒れ道などを、身なりが見すぼらしくて、下男などの姿で来た所が、山荘内は多くの人が立ち騒いでいて、
「今晩、このまま直ぐに」
「遺骸を埋葬し申すのである」
何人かが叫ぶのを聞いてと時方は、呆れてしまった。時方は右近に来意を告げたけれども、取込み中なので、右近には逢う事が出来ない。右近は取次を通じて、
「只今は、途方に暮れて、起き上るような気もしなくて臥しております。そうではあるが、貴方は、今夜限りこのように立寄りされるのは最後でありましょう。然るに私は御話を申しあげる事が出来ないのが残念です」
「御話をなさらぬと言って、実際の事情がこんなにはっきりしなくては、私はどうして京に帰参できましょうか。せめて侍従にでも、逢わせて下さい」 と、真剣になって言うので、侍従女房が出てきて時方と話をする。侍従は、
「本当に驚き呆れています。浮舟御自身も思いがけない状態で急に亡くなられました。もの凄く悲しいと言いたいが、あまりにもあっけなく、夢を見ているようで、誰もかれも途方に暮れております、と言うことを匂宮に報告してください。少し私の気持を落ちつけて気分が収まりましたならば、浮舟が日ごろ思い悩んでいたことや、あの匂宮のおいでになった晩にお逢いできなくてどの様に苦しんだか、その様子などもお話し申し上げることができるかと思います。死人の穢れや何やと、世間の人が忌みます、中陰(七七日ー四十九日)の間を過ごして後に、貴方はもう一度此処をお訪ね下さいませ」
山荘には翌朝、みんなが浮舟の姿が見えないのを、大騒ぎして捜すのであるが、見つからなかった。その騒ぎはまるで物語の主人公の姫が誘拐された朝のようなもので、良く知れたこと故詳しい状況は書かなくても分かるであろう。京から浮舟の母である常陸介の北方が、
「昨日、(祈祷のため宇治の寺に誦経せよなどの)文を持って宇治行かせた使者が、戻ってこないのが気になるから」
と書いた文を持った新しい使者を京から宇治に送ってきた。使者は、
「まだ鶏の鳴いている夜の明けない間に、私を出発させなさった」
と使者が言う。鶏の鳴くのは、一番鳥(真夜中、即ち一時前後頃)、二番鳥(夜中、即ち二時前後)、三番鳥(夜明け前、即ち三時前後)である。話は三月末であるから、日の出は四時五十分前後である。この使者は、「まだ鳥の鳴くになん云々」と言っているから、三番鳥が鳴いている頃に京を出発した。所要時間は一里を四十五分位としても、宇治橘辺に到者するのは五時過ぎ頃であろう。
使いの言うのを聞いて乳母や右近、侍従の女房達は、浮舟が失踪したことを、どう返事をすればいいかと、うろたえ騒ぐ事は当然のことである。彼女が何処に消えたか推量する方法もないので、女房達は、お互に大騒ぎをしているばかりであるけれども、事情を知っているあの右近と侍従とは、浮舟が最近ずっと物を思い詰めていたことを思うと、宇治川に投身したのではないかと思っていた。涙を流しながら母から来た文を開くと、
「貴女の事が気がかりのために、私は、うとうとと眠る事が出来ないせいか、直接には勿諭逢えないが、今夜は、せめて夢にでも逢いたいと思うのに、夢にまでゆっくりと親しく逢う事が出来ず、夢の中で鬼に、不意に攻めかかられて、気分も平素と違って不快です、それで、やっぱり、女二宮(薫の本妻)が貴女を呪う事でもあるのかと、女二宮を恐ろしく思っておあります。薫様の方へ移る日が近づいているのであるけれども、移るまでの間、私のところでお過ごしなされ、あいにく今日は雨が降っていますから明日にでもそうなさい」
昨夜の浮舟の母への返事を開いてみて右近は泣き倒れた。そう、入水でもなされるのかと、私の案じた通りである。だから、鐘の音のなどと、心細い事を独り言で口にしてお出でだった。どうして自分に心の中の少しでも相談されなっかたのか、浮舟の幼いときからお互いに少しも、隠し立てするようなこともなく親密に過ごしていましたのに、この世もこれまでと言う死出の旅に、私を後に残し、せめて死ぬ覚悟を少しも、右近に見せなかったことを思うと辛いと、子供が泣きわめくように足摺をして床をのたうち回る。侍従の女房も、浮舟が何事かを一心に考え込んでいるのは、ずっと以前から見ていたのであるが、決して入水自殺のような大変な事をして、みんなが大騒ぎするような状態になさろうとは、思いもしなかった。だからどうしてこんなことをと侍従も考えられず、悲しみも大きかった。冷静で力となるべき乳母は、右近や侍従達よりも却って、途方に暮れて、何事も考えられなくて、
「どうしよう、どうしよう」
そればかり繰り返して言っていた。
匂宮も浮舟から貰った返書の歌が気になって、浮舟は何を考えているのだろうか。自分を思っているのであるものの 然しながら、自分を、浮気な心であるとばかり彼女は疑うので、何処かに身を隠したのではないかと、思って使いを送った。使いは山荘の総ての者達が泣き喚いているところへやって来て、匂宮の文を渡すことが出来ない、
「どうしたのですか」
とあまりの騒ぎに下働きの女に使者は聞いた。女は、
「主人(浮舟)様が昨夜急死なされてしまったから、皆様方は物も考える事が御出来ずに途方に暮れておられます。頼りになさる薫様も居られず、此処にいる人達はうろたえ慌てて、何かに突き当ってはまごついてばかりです」
使いの者は、この山荘と匂宮の関係を深く知らない男なので、この下働きの女から詳しいことはよく聞かないで、二条院に帰参した。使者は取り次ぎを通じて、宇治の状況を匂宮に知らせた。匂宮は夢の中で話を聞いているように思え、これはおかしな事だ、浮舟が病気であるとも聞かないし、日ごろ悩んでいるとは聞いていたが、昨日貰った返書は亡くなるような様子もなくて、平素よりも却って、述べてある事は面白そうであったものなのにと、匂宮は想像できないので、
「時方宇治に出向いて様子を見て、確実なことを報告せよ」
「あの薫大将が、どんな事であるかわからないが、耳にされた事が、何かあったのでしょう。宿直の夜警をする者の、夜警が怠慢である。などと薫が叱責なされるからと、言うので下仕えの男が出て行くのに対しても宿直の夜警が色々と質問すると言うことですので、何か口実を作って行かなければ、宇治に、私が参ったとして、宇治へ来たことを咎められて、何かの噂が、薫の耳に入る事があれば、当方の秘密の計略を薫が気づきなされる懸念などがござります。そうしてまた、急に浮舟が亡くなりなされたような所は、言うまでもなく騒がしく、その上、葬儀関係の人も頻繁に出入しておりましょうから」「宿直に見咎められるとか、薫に気づかれるとかで、事情がはっきりしなくては、どうしてよいか分からないではないか。考えて明確になる方法を考えた上でうまい工合に口実作って、あの事情を知っている侍従などに逢って、どんな騒動を、下働きの女が文を持って行った使者に言ったのか、尋ねて見てくれ。下々の者は、間違いを言うものである」
匂宮が気の毒な気持を察して、時方は夕方宇治に向かった。
時方のような身分の低い者は、進退が簡単で、自由であるから僅かの時間で宇治に到着した。降っていた雨は少し収まったが木幡山の荒れ道などを、身なりが見すぼらしくて、下男などの姿で来た所が、山荘内は多くの人が立ち騒いでいて、
「今晩、このまま直ぐに」
「遺骸を埋葬し申すのである」
何人かが叫ぶのを聞いてと時方は、呆れてしまった。時方は右近に来意を告げたけれども、取込み中なので、右近には逢う事が出来ない。右近は取次を通じて、
「只今は、途方に暮れて、起き上るような気もしなくて臥しております。そうではあるが、貴方は、今夜限りこのように立寄りされるのは最後でありましょう。然るに私は御話を申しあげる事が出来ないのが残念です」
「御話をなさらぬと言って、実際の事情がこんなにはっきりしなくては、私はどうして京に帰参できましょうか。せめて侍従にでも、逢わせて下さい」 と、真剣になって言うので、侍従女房が出てきて時方と話をする。侍従は、
「本当に驚き呆れています。浮舟御自身も思いがけない状態で急に亡くなられました。もの凄く悲しいと言いたいが、あまりにもあっけなく、夢を見ているようで、誰もかれも途方に暮れております、と言うことを匂宮に報告してください。少し私の気持を落ちつけて気分が収まりましたならば、浮舟が日ごろ思い悩んでいたことや、あの匂宮のおいでになった晩にお逢いできなくてどの様に苦しんだか、その様子などもお話し申し上げることができるかと思います。死人の穢れや何やと、世間の人が忌みます、中陰(七七日ー四十九日)の間を過ごして後に、貴方はもう一度此処をお訪ね下さいませ」
作品名:私の読む「源氏物語」ー82-蜻蛉 作家名:陽高慈雨