私の読む「源氏物語」ー77-東屋3-1
東 屋
源重之の歌に
筑葉山端山しげ山繁けれど思ひ入るには障らざりけり(筑波山は、はしの山、木の茂った山と、山が多いが、分け入ろうと思えば妨げにならない、そのように人目は多いが、心の中で逢いたいと思いいるのには、妨げにはならないことだ)というのがある。
薫は、常陸育ちの浮舟を考えて自分の物として世話したい気持はありながら、田舎者の身分の者にまで無闇に熱中するような事は外聞が悪い、浮舟が受領程度の娘である点からも、当然きまりの悪い身分であるから、それを相手にする事を考えて文をさえ送ることが出来なかった。然しあの弁尼から浮舟の母親に、かつて弁尼に話した浮舟所望の件などを、仄めかしはしたが浮舟を、薫が本気で考えているとは母親の中将君は思わないで、浮舟を所望する程まで、私の娘のことを色々と聞かれて存じなされるとは、忝ないということは他意なく興味を感じ、しかも薫のような身分の方が、この世では有り難いことで自分達の身分が、もしも人なみであるならば、薫を婿にしたいのであるがなあ、色々と思うのであった。 常陸介を守と言った。上野や常陸などは、親王の任国であった。だが、親王は赴任せず、実務は介が扱ったので介を、一般に守とも言った。その常陸介の子供は先妻の子供など多くあり、この後妻に入った、元中君の父八宮の女房で中将君と呼ばれて八宮の手が着いて浮舟を生んだが後に常陸介の後妻に入って彼の子を産んでいた、その子は女の子であった。その他にも幼子が次々と五六人あり、この子供達の養育に追われて常陸介は継娘の浮舟を常に他人扱いにしたので母の北方(中将君)はそのような夫を恨みに思い、どうにかして、外の娘達よりも勝れた良縁を得て名誉を得て面目を施す身分に、浮舟をして見せようと、明けても暮れても浮舟のことを思って行動していた。浮舟の容姿や体型は十人並みで、常陸介の実子達の娘と一緒にしても、差支ない程度ならば、母北方(中将君)は、全くこんなに苦しみ苦労することもない。外の娘達と同じように、浮舟を常陸介の実子と、人に思わせて差支ない世間なのに浮舟は常陸介の実子などに紛れず、一人だけ目立ってどう見ても美しくけ高く成人したから母の北方は今の田舎暮らしの境遇が残念で、このまま田舎で果ててしまうのかと思うのであった。
常陸介に女の子が多いと言うことを人が聞いてどうやら貴公子と呼ばれるような身分の人達も恋文を送ってくる者が多数いた。先妻に産まれた二、三人の娘は、全部縁づけて、一人前の大人にした。だから今は浮舟を思い通りの婿取りをするようにと毎日見守って最大の努力をしていた。夫の常陸介の身分も低い者ではなく、公卿の家系で、親族一門も、賎しく悪びた人達はなく、地方官に就任して任地に行った者は、財物も非常に沢山ありなどするから、身分相応に高く構えて、家の内もきらびやかに飾って清潔で美しく住んでいて、風流好みをしているが、その程度に比較しては、性情が不思議に荒っぼくて田舎者の性格が身に染みているのである。彼は若くからあのような開けない東国の方で、初めは陸奥、その後に常陸と都からずっと遠い田舎世界に勤務をして成長したからか、発音などは殆んど調子が違っているようで、喋る言葉は少し東国言葉に訛ったようであり、そうして大臣や大将などと言うような権門や勢力家の方々を、非常に恭順にして恐れかしこむ態度をとる点などは隙のない人間のようでもあり、されど、地方官の故に絃楽器(琴)や管楽器(笛)の道は、縁遠くて理解せず、武士として弓は賞讃ずべき状態に
引くのであった。地方官という何でもない普通の家柄であるのに、それでも、常陸介の受領としての富裕な財カに引きつけられて、身分のよい若い女房達が集まり、衣裳や身のなり振りを一通りでなく取りそろえて、下手な歌合をし、各自が交代に物語をする堤中納言物語の「このついで」のように、人の噂話など話をし、庚申待と称して徹夜で楽しみ、あまり盛んで見ておられなく見苦しい程までに、色々と遊び勝ちで、物好きであった生活に対して、浮舟に懸想をする男達は、
「気立ては馴れ馴れしくて、何事にも、いかにも巧者であろう」
「顔かたちが、いかにも大層綺麗であると言う事である」
などと浮舟を美人と言うことに、見たこともないのだが敢えて評判してお互い気を揉んでいたのであるが、その中に左近少将という歳は二二、三歳ぐらいで、性質が落ち着いて沈着であり、「才学がある」という点は人も認めているが、ばっと輝くように、派手に生活する事などは、経済が許さないのであろうか、かつて通った女の所なども縁が切れて、現在は心細かに浮舟に言い寄っていた。
浮舟の母は多く言い寄る男達の中で
この少将は人柄が良くて感じが良い。意志も堅固なのでたしかに、女の扱いには慣れているようであるが、浮気して乱れる様子もなく人品も見込みがある。左近少将以上に勝れて堂々たる立派な身分の人がこんな地方官風情の娘を、たとえ美しいと言っても、言い寄ってくることはないであろう、と思い浮舟に少将から来た懸想文を見せて、返事を出すべき時は娘に念入りな文章で返事をさせた。母の北方は自分の心一つに思案して、父常陸介は、いかにも継娘と思って疎略にするが、私は命に替えても浮舟を守っていくと決意した。
浮舟の容姿が端麗なのを誰もが見たならば、この女を放っておく者は居ないであろうと少将を聟にと決めて、婚姻は八月にと少将と約束して、婚姻のための手廻りの道具の類を調製し、ちょつとしたつまらない弄び道具を作らせても形態は特別に勝れており、意匠も風情あるように面白く、また蒔絵や螺鈿の行届いて精細な趣向が優れて見える物を浮舟の道具に与えようと、夫の常陸介に隠して、できの悪いのを夫の娘の物にきめて見せるのであったが、夫は何の識別もできる男でなかったから、座敷の飾りになるという物はどれもこれも買い入れて、浮舟の居間はそれらでいっぱいで、わずかに目をすきまから出して外がうかがえるくらいに道具を並べ立て、琴や琵琶の稽古をさせるために、御所、内裏の左近衛の北にあって、舞姫に舞や楽を教習させる所の内教坊に勤める楽師を迎えて師匠にし娘達に教えさせていた。曲を一つ習得し終れば、常陸介は、その師匠を、立ったり坐ったりして、拝んで喜び師匠に持ちきれないほどの多くの禄を与えて喜ぶのである。雅楽は序・破・急の三楽章からなっているのを正式とする。その各楽章は又、いくつかの小曲を組合わせて構成されている。小曲を数える単位を帖と言う。例えば、「序五帖」とか「破三帖」の如くである。娘達に調子が早くて軽快な曲の物などを教え、そうして、師匠と、その習った曲の物を落ち着いた夕暮れに娘達が師匠に交じって合奏すると、常陸介は感動して涙を流しみっともないほど自分は無風流ながら何となしに賞賛した。このような常陸介のする事なす事を浮舟の母は音楽を少しは知っているので夫の態度を見苦しいことと思うので、とりたてて褒めたりおだてたりして相手になつて調子を合わせないので、
「私の娘達を、お前は、浮舟よりも見下しした」
といつも妻を恨んでいた。
源重之の歌に
筑葉山端山しげ山繁けれど思ひ入るには障らざりけり(筑波山は、はしの山、木の茂った山と、山が多いが、分け入ろうと思えば妨げにならない、そのように人目は多いが、心の中で逢いたいと思いいるのには、妨げにはならないことだ)というのがある。
薫は、常陸育ちの浮舟を考えて自分の物として世話したい気持はありながら、田舎者の身分の者にまで無闇に熱中するような事は外聞が悪い、浮舟が受領程度の娘である点からも、当然きまりの悪い身分であるから、それを相手にする事を考えて文をさえ送ることが出来なかった。然しあの弁尼から浮舟の母親に、かつて弁尼に話した浮舟所望の件などを、仄めかしはしたが浮舟を、薫が本気で考えているとは母親の中将君は思わないで、浮舟を所望する程まで、私の娘のことを色々と聞かれて存じなされるとは、忝ないということは他意なく興味を感じ、しかも薫のような身分の方が、この世では有り難いことで自分達の身分が、もしも人なみであるならば、薫を婿にしたいのであるがなあ、色々と思うのであった。 常陸介を守と言った。上野や常陸などは、親王の任国であった。だが、親王は赴任せず、実務は介が扱ったので介を、一般に守とも言った。その常陸介の子供は先妻の子供など多くあり、この後妻に入った、元中君の父八宮の女房で中将君と呼ばれて八宮の手が着いて浮舟を生んだが後に常陸介の後妻に入って彼の子を産んでいた、その子は女の子であった。その他にも幼子が次々と五六人あり、この子供達の養育に追われて常陸介は継娘の浮舟を常に他人扱いにしたので母の北方(中将君)はそのような夫を恨みに思い、どうにかして、外の娘達よりも勝れた良縁を得て名誉を得て面目を施す身分に、浮舟をして見せようと、明けても暮れても浮舟のことを思って行動していた。浮舟の容姿や体型は十人並みで、常陸介の実子達の娘と一緒にしても、差支ない程度ならば、母北方(中将君)は、全くこんなに苦しみ苦労することもない。外の娘達と同じように、浮舟を常陸介の実子と、人に思わせて差支ない世間なのに浮舟は常陸介の実子などに紛れず、一人だけ目立ってどう見ても美しくけ高く成人したから母の北方は今の田舎暮らしの境遇が残念で、このまま田舎で果ててしまうのかと思うのであった。
常陸介に女の子が多いと言うことを人が聞いてどうやら貴公子と呼ばれるような身分の人達も恋文を送ってくる者が多数いた。先妻に産まれた二、三人の娘は、全部縁づけて、一人前の大人にした。だから今は浮舟を思い通りの婿取りをするようにと毎日見守って最大の努力をしていた。夫の常陸介の身分も低い者ではなく、公卿の家系で、親族一門も、賎しく悪びた人達はなく、地方官に就任して任地に行った者は、財物も非常に沢山ありなどするから、身分相応に高く構えて、家の内もきらびやかに飾って清潔で美しく住んでいて、風流好みをしているが、その程度に比較しては、性情が不思議に荒っぼくて田舎者の性格が身に染みているのである。彼は若くからあのような開けない東国の方で、初めは陸奥、その後に常陸と都からずっと遠い田舎世界に勤務をして成長したからか、発音などは殆んど調子が違っているようで、喋る言葉は少し東国言葉に訛ったようであり、そうして大臣や大将などと言うような権門や勢力家の方々を、非常に恭順にして恐れかしこむ態度をとる点などは隙のない人間のようでもあり、されど、地方官の故に絃楽器(琴)や管楽器(笛)の道は、縁遠くて理解せず、武士として弓は賞讃ずべき状態に
引くのであった。地方官という何でもない普通の家柄であるのに、それでも、常陸介の受領としての富裕な財カに引きつけられて、身分のよい若い女房達が集まり、衣裳や身のなり振りを一通りでなく取りそろえて、下手な歌合をし、各自が交代に物語をする堤中納言物語の「このついで」のように、人の噂話など話をし、庚申待と称して徹夜で楽しみ、あまり盛んで見ておられなく見苦しい程までに、色々と遊び勝ちで、物好きであった生活に対して、浮舟に懸想をする男達は、
「気立ては馴れ馴れしくて、何事にも、いかにも巧者であろう」
「顔かたちが、いかにも大層綺麗であると言う事である」
などと浮舟を美人と言うことに、見たこともないのだが敢えて評判してお互い気を揉んでいたのであるが、その中に左近少将という歳は二二、三歳ぐらいで、性質が落ち着いて沈着であり、「才学がある」という点は人も認めているが、ばっと輝くように、派手に生活する事などは、経済が許さないのであろうか、かつて通った女の所なども縁が切れて、現在は心細かに浮舟に言い寄っていた。
浮舟の母は多く言い寄る男達の中で
この少将は人柄が良くて感じが良い。意志も堅固なのでたしかに、女の扱いには慣れているようであるが、浮気して乱れる様子もなく人品も見込みがある。左近少将以上に勝れて堂々たる立派な身分の人がこんな地方官風情の娘を、たとえ美しいと言っても、言い寄ってくることはないであろう、と思い浮舟に少将から来た懸想文を見せて、返事を出すべき時は娘に念入りな文章で返事をさせた。母の北方は自分の心一つに思案して、父常陸介は、いかにも継娘と思って疎略にするが、私は命に替えても浮舟を守っていくと決意した。
浮舟の容姿が端麗なのを誰もが見たならば、この女を放っておく者は居ないであろうと少将を聟にと決めて、婚姻は八月にと少将と約束して、婚姻のための手廻りの道具の類を調製し、ちょつとしたつまらない弄び道具を作らせても形態は特別に勝れており、意匠も風情あるように面白く、また蒔絵や螺鈿の行届いて精細な趣向が優れて見える物を浮舟の道具に与えようと、夫の常陸介に隠して、できの悪いのを夫の娘の物にきめて見せるのであったが、夫は何の識別もできる男でなかったから、座敷の飾りになるという物はどれもこれも買い入れて、浮舟の居間はそれらでいっぱいで、わずかに目をすきまから出して外がうかがえるくらいに道具を並べ立て、琴や琵琶の稽古をさせるために、御所、内裏の左近衛の北にあって、舞姫に舞や楽を教習させる所の内教坊に勤める楽師を迎えて師匠にし娘達に教えさせていた。曲を一つ習得し終れば、常陸介は、その師匠を、立ったり坐ったりして、拝んで喜び師匠に持ちきれないほどの多くの禄を与えて喜ぶのである。雅楽は序・破・急の三楽章からなっているのを正式とする。その各楽章は又、いくつかの小曲を組合わせて構成されている。小曲を数える単位を帖と言う。例えば、「序五帖」とか「破三帖」の如くである。娘達に調子が早くて軽快な曲の物などを教え、そうして、師匠と、その習った曲の物を落ち着いた夕暮れに娘達が師匠に交じって合奏すると、常陸介は感動して涙を流しみっともないほど自分は無風流ながら何となしに賞賛した。このような常陸介のする事なす事を浮舟の母は音楽を少しは知っているので夫の態度を見苦しいことと思うので、とりたてて褒めたりおだてたりして相手になつて調子を合わせないので、
「私の娘達を、お前は、浮舟よりも見下しした」
といつも妻を恨んでいた。
作品名:私の読む「源氏物語」ー77-東屋3-1 作家名:陽高慈雨