大杉渓谷
サラサラと流れる心地良い渓流の音。
小さな岩を乗り越えて流れる水音。
―――まるで水辺の交響曲だ――。
茶褐色の石ころ達が川底に並んで見える程に透き通つた清らかな渓流。
そこでは渓に住んでいる妖精たちが皆んなで思い思いに遊んでいるような不思議な世界が現れる。
――もう何度この大杉の林立する細い林道へ車を走らせたことだろう。
この渓谷の自然が、春から夏へ、そして秋へと変化する度に、澄んで底石が見える位の清冽な流れの中に自分を佇ませたことだろう。
この何年間、朝起きると天気が気になり窓から空を眺めては、今日は釣りが出来るぞと胸を躍らせたり、雲行きが怪しかったり、雨降りだったりすると、ガックリしたり、朝の気分は重大だ。
渓へ向かう車中で思うのは、今日も美しい魚体の岩魚(イワナ)に出会えるだろうか。
釣れると嬉しいなと期待で一時間以上もかかる道のりも全然苦にならない。
夢うつつで運転している。
大杉谷の渓流は私にとって上流へ釣り上がれる適度の川で、もう何度も通ううちに岩魚の釣れそうなポイントも覚えてしまった。
始めの数年は岩魚を数多く釣りたい一心で無我夢中だった。
何冊も釣りの本を買い、飽きることなく読んだり、釣り番組も熱心に見たりした。
流れの中を歩く苦労も魚のアタリを求めて釣り上がる楽しみの方がはるかに大きかった。
釣り歴四十年の師匠のおかげで、かなり釣れるよううになり、そのうち、富山の渓流にも誘われそのダイナミックスさに取り付かれてしまった。
初めての尺上三六cmの岩魚を棹を一部折りながらも一気に引き上げる胴抜きの釣りかたで手にした時の感激は忘れられない。
その一尾が渓流釣りに私をのめりこませたと思う。
釣具店でその岩魚記念して、手でつかんだ私の写真を一年間も釣りコーナーに飾ってくれたのも嬉しい思い出だ。
そのうちひとりでも渓に通い出すようになった。
休みがあると渓へ私を引き込む魅力があった。
大杉の自然に心ゆくまでたっぷりと浸れる自由さ、気ままさが気に入り、連れと一緒でなくても渓に入れるように大胆になった。
里の桜が散ると渓はいっせいに芽吹きだす。
その神秘的な美しさは、夢うつつの気分にさせる。
里の紫陽花が終わった後で、林道の奥に濃紫陽花が白く仄かに光っている。
私はいつの間にか春を二度求めて釣りも兼ねて渓へ訪れるようになった。
渓の秋の始まりは里がまだ残暑厳しい頃にもう渓の橋のたもとの紅葉は色ずき始めているのを見つける。
大杉には背中がトルコブルー、羽が赤くふちが黒いきれいなトンボが飛ぶ。
流れの中にその二尾が連れ添って優雅に飛び交っているのをゆったりと眺めていると、時折私の棹の先に止まる。
釣るのを止めて、そおっと飽きずに見ていると、トンボのように誰にも束縛されずに行きたい所に、浮き浮きと飛んでいる気分になり、楽しくて本当に気持ちがいい。
ふと顔を上げ、空を見上げれば、流れに枝を伸ばした緑の葉と葉の間からこぼれくる陽光のまばゆい美しさ。渓と天が一体になっての恍惚感を全身で受け止めている。
ただひとりでいるからこそ心に染みる満ち足りた気分。
心から自然の奏でる美への共感を味わえる時間。
渓には多くの妖精たちがいる。
清冽な流れはさまざまな音で一杯だ。
サラサラとした川音。ジャズのような軽快な流れの音。
急流の激しい流れの音。
滝の落ちる音。
何度聞き分けようと耳を傾けても、表現する言葉が思いつかない。
私にはたくさんの妖精たちがさまざまなおしゃべりをぺちゃくちゃ気ままに楽しんでいるような気がしてならない。
語り尽くせない思いをザワザワといつまでも話し合っているように――。
まるでコンサート会場に居るようないい気分だ。
岩魚を釣ることも忘れて時が過ぎる。