銚子旅行記 銚子からあのひとへ 第五部
第十一章 外川の街
しばらくキャベツ畑の中の坂道を下って歩くと、道が平坦になる。もうすぐで外川の町にたどり着くようだ。展望館では外川まで20分ぐらいだと言っていた。大体そのぐらいでたどり着いた。景色もどことなく見覚えがある。それもそのはず、その景色の中を歩いていたら、バスの折り返し場に行き着いた。その看板には、〝外川〟と書かれていた。四月にバスで来た場所だった。
山を下って来て、すっかりまたのどが乾いてしまった。ちょうど折り返し場に自動販売機があったので、お茶を買うことに。ペットボトルの飲み物は160円というこのご時世に、140円で買うことができた。ふたを開けて飲むと、冷たくてうまかった。
また街を歩いて行く。すると、例の〝ミニ資料館〟の前を通りかかった。中をのぞいてみると、魚の干物を冷やしておくための冷蔵庫には明かりが点いていた。しかし、資料館の中には明かりは点いていなかった。
〈休館日なのだろうか?〉
そう思いながらその前を進んで行くと、漁港の近くの通りに出た。この近くにある石段には、東日本大震災の時に発生した津波の到達点が地元の人によって記されている。大体の場所を思い出しながら歩いていると、苔むす石段の隅に白いペンキで書かれた文字が。
┃
2011.3.11
ツナミ
波打ち際からは500メートルほど離れているし、高さだってそこより高い場所だ。それを鑑みると、あの地震によって発生した津波は、とてつもないものだったということを容易に想像できる。いくら銚子市での人的被害がなかったとは言え、あの震災がいかに大きなものだったかを物語っているような気がした。
その石段をさらに下りて行くと、漁港の周りの大通りに出る。漁協の建物の前を歩いて行くと、漁船が停泊している辺りにたどり着いた。何艘もの漁船が、プカプカと停泊している。
そろそろ太陽も西に傾き始めている。いつも外川には午前中に来る。冬のこの時間帯の陽光に包まれた外川は初めてだ。何か神々しささえ感じる光に包まれた外川の海は、穏やかだった。
漁港の風景を撮影し、外川駅へ向かって歩くことにした。さっきから気になっていたのが、道端のサンタクロース。時季柄、それがいてもおかしくないけれど、ずっと座っている。何やら〝ドルフィンウォッチング〟と書かれた建物の前にある。気になったので見に行ってみると、どうやらマネキン人形のようだった。いくら少し暖かいとは言え、ずっと座っているのは大変だろうと思っていた。そういうことだったのか。
そのままその前を通り過ぎ、道なりに歩いて行く。初めて歩く道だけれど、方角としては外川駅に向かっている。その途中で、不動産屋の貼り紙を見かけた。住宅や土地などの情報が書かれている。別に家を買うわけではないけれど、少しだけ見てみる。すると、家にしても土地にしても、所沢に比べてゼロが一つ少ない。確かにこの辺りは、東京に出るのも、千葉市に出るのも時間がかかる場所。これぐらいが適正価格なのだろうか。
犬吠埼のガイドさんは、銚子は平坦な場所だと言っていた。しかし、外川は坂の多い街だ。少し歩くと坂道になった。さっきの山に負けず劣らずというものだ。どうしても最近は旅先で坂道を歩くと、やっぱり〝伊豆の悪夢〟が頭をよぎる。道端でのた打ち回っていたら、雨が降り始めたというオマケつきだった。あれであの旅が台無しになったと言っても過言ではない。今日はそんなことにならなければいいのだけれど……
ビクビクしながら坂道を歩く。ふと後ろを振り返ると、遠くで外川の海が陽光を浴びてキラキラと輝いていた。あまり後ろとか過去を振り返るものじゃないと、人はよく言う。しかし、こうして振り返らないと見られない景色だってある。そう思いながら坂を上っているうちに、平坦な場所にたどり着いた。これでひとまずは安心できる。だが、この辺りを歩いたのは初めて。なので、今度は外川駅がどこにあるか分からない。勘を頼りに歩いていると、目の前に、草に覆われた線路が現れた。その先に外川駅があった。何とか外川駅にたどり着くことができた。
外川駅の駅舎は、大正12年に開業した時からの駅舎が、改修を繰り返しながら使われている。レトロな駅舎を見るためにここを訪れる人も多い。この駅には、かつて使われていた〝デハ800形〟という電車の801号車が置いてある。赤と茶色のツートンカラーをまとっているそれは、2010年に引退した電車だ。ずっと外川駅に置かれているようだけれど、時々、置かれている場所が移動している。何が目的でずっとここに置かれているのか分からない。それでも、海が近いこともあって車体はボロボロ。ちゃんと保存するのならば、そろそろ塗装の手直しなどをしてあげて欲しいところ。
さて、この駅にも〝縁起物切符〟がある。この駅のそれは、外川漁港の漁師の歌で商売繁盛というフレーズがあることから、〝商売繁盛〟と書かれている。これをよく行く模型屋さんなど、商売人の知人に買って行く。合計3枚。ここも自動券売機ではなく、窓口で駅員さんと言葉を交わして切符を買う方式。その窓口の横に時刻表があったので、次の列車の時間を見てみる。もういくらもしないうちに来るようだった。
犬吠駅へ向かう列車の中で、昨年十月、外川駅の近くに新しい喫茶店がオープンしたという広告を見た。そこに寄って時間を潰そうと思っていたので、次の列車に乗るつもりだった。ところが、駅前に出てみるとそれらしきものが見当たらない。これから探すにしては、少し時間がかかりそうだった。それだったらと、急いで駅へ戻った。ちょうど銚子行きの列車が来たばかり。それに乗って、銚子駅まで行ってしまうことにした。
第十二章 銚子へ向かう
到着した列車からは、たくさんの人が降りて来る。その人々がなるべく写らないようにして、駅の風景を撮影した。レトロな雰囲気の801号車だけの写真は撮れなかったけれど、古くとも都会的な感じの1001号車と並んでいる写真を撮ることはできた。後は列車に乗って発車の時を待つ。
しばらく待つと、駅舎の方からベルの音が聞こえて来た。最近では発車を告げる合図はメロディばかり。それでも、まだまだこうしてベルの鳴る駅は残っている。
ゆっくりと外川駅を出た列車には、女性の車掌さんが乗っていたし、ボランティアガイドのおばさんも乗っていた。そのガイドさんが、どことなく、例の〝ミニ資料館〟のおばあさんに似ている気がした。ただ、目の前にいるおばさんはしゃべり方が丁寧。多分、違う人だ。〝ミニ資料館〟のおばあさんは、どちらかと言えば、気風のいい江戸弁のような感じのしゃべり方をしていたから。
車掌さんが忙しそうに車内を歩き回っている。ガイドさんはガイドさんで、近くにいる乗客に、
「どこから来たの?」
と訊く、〝乗客参加型〟の案内を繰り広げていた。
しばらくキャベツ畑の中の坂道を下って歩くと、道が平坦になる。もうすぐで外川の町にたどり着くようだ。展望館では外川まで20分ぐらいだと言っていた。大体そのぐらいでたどり着いた。景色もどことなく見覚えがある。それもそのはず、その景色の中を歩いていたら、バスの折り返し場に行き着いた。その看板には、〝外川〟と書かれていた。四月にバスで来た場所だった。
山を下って来て、すっかりまたのどが乾いてしまった。ちょうど折り返し場に自動販売機があったので、お茶を買うことに。ペットボトルの飲み物は160円というこのご時世に、140円で買うことができた。ふたを開けて飲むと、冷たくてうまかった。
また街を歩いて行く。すると、例の〝ミニ資料館〟の前を通りかかった。中をのぞいてみると、魚の干物を冷やしておくための冷蔵庫には明かりが点いていた。しかし、資料館の中には明かりは点いていなかった。
〈休館日なのだろうか?〉
そう思いながらその前を進んで行くと、漁港の近くの通りに出た。この近くにある石段には、東日本大震災の時に発生した津波の到達点が地元の人によって記されている。大体の場所を思い出しながら歩いていると、苔むす石段の隅に白いペンキで書かれた文字が。
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2011.3.11
ツナミ
波打ち際からは500メートルほど離れているし、高さだってそこより高い場所だ。それを鑑みると、あの地震によって発生した津波は、とてつもないものだったということを容易に想像できる。いくら銚子市での人的被害がなかったとは言え、あの震災がいかに大きなものだったかを物語っているような気がした。
その石段をさらに下りて行くと、漁港の周りの大通りに出る。漁協の建物の前を歩いて行くと、漁船が停泊している辺りにたどり着いた。何艘もの漁船が、プカプカと停泊している。
そろそろ太陽も西に傾き始めている。いつも外川には午前中に来る。冬のこの時間帯の陽光に包まれた外川は初めてだ。何か神々しささえ感じる光に包まれた外川の海は、穏やかだった。
漁港の風景を撮影し、外川駅へ向かって歩くことにした。さっきから気になっていたのが、道端のサンタクロース。時季柄、それがいてもおかしくないけれど、ずっと座っている。何やら〝ドルフィンウォッチング〟と書かれた建物の前にある。気になったので見に行ってみると、どうやらマネキン人形のようだった。いくら少し暖かいとは言え、ずっと座っているのは大変だろうと思っていた。そういうことだったのか。
そのままその前を通り過ぎ、道なりに歩いて行く。初めて歩く道だけれど、方角としては外川駅に向かっている。その途中で、不動産屋の貼り紙を見かけた。住宅や土地などの情報が書かれている。別に家を買うわけではないけれど、少しだけ見てみる。すると、家にしても土地にしても、所沢に比べてゼロが一つ少ない。確かにこの辺りは、東京に出るのも、千葉市に出るのも時間がかかる場所。これぐらいが適正価格なのだろうか。
犬吠埼のガイドさんは、銚子は平坦な場所だと言っていた。しかし、外川は坂の多い街だ。少し歩くと坂道になった。さっきの山に負けず劣らずというものだ。どうしても最近は旅先で坂道を歩くと、やっぱり〝伊豆の悪夢〟が頭をよぎる。道端でのた打ち回っていたら、雨が降り始めたというオマケつきだった。あれであの旅が台無しになったと言っても過言ではない。今日はそんなことにならなければいいのだけれど……
ビクビクしながら坂道を歩く。ふと後ろを振り返ると、遠くで外川の海が陽光を浴びてキラキラと輝いていた。あまり後ろとか過去を振り返るものじゃないと、人はよく言う。しかし、こうして振り返らないと見られない景色だってある。そう思いながら坂を上っているうちに、平坦な場所にたどり着いた。これでひとまずは安心できる。だが、この辺りを歩いたのは初めて。なので、今度は外川駅がどこにあるか分からない。勘を頼りに歩いていると、目の前に、草に覆われた線路が現れた。その先に外川駅があった。何とか外川駅にたどり着くことができた。
外川駅の駅舎は、大正12年に開業した時からの駅舎が、改修を繰り返しながら使われている。レトロな駅舎を見るためにここを訪れる人も多い。この駅には、かつて使われていた〝デハ800形〟という電車の801号車が置いてある。赤と茶色のツートンカラーをまとっているそれは、2010年に引退した電車だ。ずっと外川駅に置かれているようだけれど、時々、置かれている場所が移動している。何が目的でずっとここに置かれているのか分からない。それでも、海が近いこともあって車体はボロボロ。ちゃんと保存するのならば、そろそろ塗装の手直しなどをしてあげて欲しいところ。
さて、この駅にも〝縁起物切符〟がある。この駅のそれは、外川漁港の漁師の歌で商売繁盛というフレーズがあることから、〝商売繁盛〟と書かれている。これをよく行く模型屋さんなど、商売人の知人に買って行く。合計3枚。ここも自動券売機ではなく、窓口で駅員さんと言葉を交わして切符を買う方式。その窓口の横に時刻表があったので、次の列車の時間を見てみる。もういくらもしないうちに来るようだった。
犬吠駅へ向かう列車の中で、昨年十月、外川駅の近くに新しい喫茶店がオープンしたという広告を見た。そこに寄って時間を潰そうと思っていたので、次の列車に乗るつもりだった。ところが、駅前に出てみるとそれらしきものが見当たらない。これから探すにしては、少し時間がかかりそうだった。それだったらと、急いで駅へ戻った。ちょうど銚子行きの列車が来たばかり。それに乗って、銚子駅まで行ってしまうことにした。
第十二章 銚子へ向かう
到着した列車からは、たくさんの人が降りて来る。その人々がなるべく写らないようにして、駅の風景を撮影した。レトロな雰囲気の801号車だけの写真は撮れなかったけれど、古くとも都会的な感じの1001号車と並んでいる写真を撮ることはできた。後は列車に乗って発車の時を待つ。
しばらく待つと、駅舎の方からベルの音が聞こえて来た。最近では発車を告げる合図はメロディばかり。それでも、まだまだこうしてベルの鳴る駅は残っている。
ゆっくりと外川駅を出た列車には、女性の車掌さんが乗っていたし、ボランティアガイドのおばさんも乗っていた。そのガイドさんが、どことなく、例の〝ミニ資料館〟のおばあさんに似ている気がした。ただ、目の前にいるおばさんはしゃべり方が丁寧。多分、違う人だ。〝ミニ資料館〟のおばあさんは、どちらかと言えば、気風のいい江戸弁のような感じのしゃべり方をしていたから。
車掌さんが忙しそうに車内を歩き回っている。ガイドさんはガイドさんで、近くにいる乗客に、
「どこから来たの?」
と訊く、〝乗客参加型〟の案内を繰り広げていた。
作品名:銚子旅行記 銚子からあのひとへ 第五部 作家名:ゴメス