突然、人生の線が途切れる
一人の女が海辺のホテルの屋上から落ちた。目撃者も遺書もなかったので、警察は自殺と他殺の両方で捜査を進めた。
宮坂刑事は定年間近である。できるなら平穏無事に過ごしたいと考えている。今回の時間も大事にならなければよいと思いながら捜査にあたった。
彼女の名は直ぐに分かった。宿泊した部屋にハンドバックがあり、その中に手帳や身分証明書があったからである。 秋山理奈。二十八歳。隣町の病院に勤務していて、同じ町にアパートを借りていた。
宮坂は彼女の職場や病院を訪ねた。
数週間前、アパートで大ゲンカをしたという話を聞いた。隣のハイミスの女性が詳らかに語る。
「凄かったわ。別れ話で揉めていた」
彼女の証言に基づき再現すればこんな感じであろう。
男「なぜ俺と別れたい」
理奈「決まっているじゃない。あなたが嫌いになったからよ」
男は狂ったように笑う。
男「あの男に惚れたな、インテリの何とかという教授に。ばかだ! お前みたいに教養のない高卒女に惚れると思ったか?」
理奈「そうかもしれない。でも、あなたはどうなのよ。あなたの頭の中は、性欲しかない。女を見れば、口説いてセックスをするだけ。鶏みたいにちっぽけな頭。でも、鶏の方がましよ」
男「どういう意味だ?」
理奈「鶏は少なくとも卵を産む。でも、あなたは世の中に何の役に立たない」
今度は理奈が大笑い。
男が部屋の中で暴れる音がした。
理奈「壊したければ壊せばいいのよ。壊せば壊すほど、あなたが愚かで惨めな存在に見えてくる。気持ちよく忘れることができる。それに女を甘く見ないことね。女の爪は飾りじゃない。 その気になればあなたの喉首を切り裂くことだってできるのよ」
男「お前みたいな、あばずれ女は俺の方から別れてやる」
強くドアを閉める音。そして女の鳴き声が続く。
ハイミスが続けて言う。
「ねえ、彼女は自殺? 他殺? 他殺ならきっと彼よ。普通じゃないもの。どこかの金持ちのボンボン息子みたいだけど」
理奈の部屋はきれいに片付いていた。
机の中に日記があった。その日記だけが手がかりだった。
つい最近の日付では、『会って話をしよう』と書かれていた。誰に会おうとしていたのか。
誰の子か分からないが、理奈は数か月前に子供をおろしていた。その子の父親と会おうとしていたのか。元彼氏という男に会った。三十近いのに無職だという。父親が地方の名士で働かなくとも食っているという。
「理奈のことが聞きたいって? もう別れたよ。公民館で三十日に何をしていたかったって? 女と一緒にコンサートに行っていたよ」
コンサートに行ったのは間違いなかった。
宮坂は理奈が付き合っていた、もう一人の男である大学教授にも会った。
「彼女は死んだのですか? それは残念だ」
まるで他人事のようで理奈の死を少しも悼んでいない。
「僕と彼女の関係ですか? 確か、二、三度か、寝たことはあったかもしれない。でも、それだけです。直ぐに別れました」
それは事実だった。今、彼は二十歳のホステスに夢中である。
理奈が妊娠したことを告げると、
「間違っても、俺の子じゃないよ」と笑った。
「そうならないように、いつも注意しているから」
また死ぬ直前の日には、『私という名の人生の線が突然途絶えても誰も気づかないだろう』と記されていた。自殺をほのめかすような文である。
数日後、自殺であることが判明した。屋上に通じる通路のところで、一人で行くのを、複数人に目撃されたからである。その数分後に飛び降りた。
宮坂は釈然としなかった。理奈は誰の子を孕んだのか。なぜ、遺書を残さずに自殺したのか。何も分からないまま、自殺ということで幕が下りた。
人生の線が突然、途切れる。そんな恐怖を、宮坂もこの頃、感じるようになった。それは孤独であることが大きく影響しているのであろう。十年前に妻と別れた。それ以来ずっと独りぼっちである。最近、誰にも気づかれないまま死ぬ、そんな悪夢を見ることがある。きっと理奈もそんな悪夢を見たのではないかと思った。しかし、わずか二十八歳で、そんな悪夢を見るのだろうか。そのうえ、お腹には赤ん坊もいるというのに。……どんなに考えても、答えは出ない。“死人に口無し”なのだから。ただ、理奈の線が途切れたことだけは間違いなかった。
作品名:突然、人生の線が途切れる 作家名:楡井英夫