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あの日はもう二度と戻ってこない

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『あの日はもう二度と戻って来ない』

 どんなドラマでも幕切れがある。シオリの好きな言葉の一つだ。初恋の相手であった男が好んだ言葉である。

シオリは、遠い昔、いろんな夢があった。劇団の舞台女優を夢みたこともあった。ちょうど高校生の頃だ。劇団のサークルに入った。そのサークルを指導した教諭は女子高校生の憧れだった。初恋の相手でもあった。ファーストキスをしたのも彼だった。彼女が三年生のとき、突然、彼は電撃結婚した。彼は何人もの女を同時に相手していて、その一人が妊娠したのだ。それで結婚する羽目になったのである。そこでシオリの初恋は淡く消えた。その話を聞いたのは春の淡雪が降る日だった。なぜか、涙が出たけれど、雪のおかげで誰にも悟られなかった。
 
高校三年のとき進路に迷った。大学に行くべきか、それとも就職した方がいいのか。このXという町に残るべきか。それとも都会に出るべきか。X町は中学のとき、父親の転勤とともに移り住んだ町だった。ぶっきらぼうな方言が好きになれなくて、いつも異邦人のような違和感を持っていた。いつか、この町を出て、都会で暮らすというのが、彼女の夢となっていた。 進路の話をしたとき、父親が「進学しても、就職してもいいが、地元に離れるな」と言った。「離れるなら、親子の縁を切る」とも。父親は寂しがり屋だった。そんなふうにしか言えない父親に対して反発しても仕方ないと思って、地元の会社に就職した。社会に出て、何度か恋をした。いつも中途半端で終わった。気づいたときは、三十を越えていた。それまで何も言わなかった母親も、三十越えてからは「早く結婚しろ」と口うるさく言うようになったが、結婚できずにいた。

いつの間にかシオリは三十三歳になった。取引先であるN社の三枝タカシという営業と知りあってから、シオリの人生は大きく変わった。一言でいえば、恋をしたのだ。久しく恋というものに遠ざかっていて、恋というものに渇望したときに、たまたま彼があらわれ恋したのである。
タカシはどこか異邦人のような顔立ちをしている。大きな夢(社長になるという夢)を持っている。そんなところにも魅かれてしまったのかもしれない。だが、実際には仕事も恋も適当、といよりも中途半端な男である。冷静に考えれば、彼の言っていることなど、実に馬鹿げた話だが、人間という生き物は恋すると盲目になる。

 いつしか、シオリはタカシが作った恋のドラマの主役を演じていた。あったと言う間に三年が過ぎた。彼女は三十五になった。父親が脳梗塞で倒れた。
「生きているうちに花嫁姿を見せてよ」と母親が毎日のように言った。その度にシオリは顔を曇らせたけれど、誰よりもそのことを望んでいたのは、他ならぬ彼女自身だった。三年間も待った。けれど、タカシの態度はいつになっても煮え切らないまま、帰らぬ人となった。思いまって、「あなたにとって、私は何?」と問い詰めた。
するとタカシは「恋人だよ。決まっているじゃないか」と微笑んだ。
 
春の日、シオリの恋のドラマはエンディングに向かった。別れの日が突然訪れたのである。
いつもなら、二人、決まったようにデートの後、ホテルに行くのに、その日は行かなかった。
 彼は海辺に車を止めた。
「どうしたの?」と聞いた。
 シオリの胸に奇妙な胸騒ぎが起こった。同時に「永すぎる春は危険よ。結婚するなら早いうちにやった方がいいよ。恋愛の賞味期限、どんなに長くても三年だって」という友人の忠告が蘇ったのである。
「海が見たい」
 彼はそう言って車から出た。シオリも従った。海から吹き寄せる風が冷たいけれど心地よい。
 彼は波打ち際まで歩いた。
「会社を辞めて、実家に戻ることにした」と呟くように言った。
シオリは耳を疑った。半分冗談だと思って彼を見た。彼は見られていることに気付いているのに、気づいていないふりをした。
「おふくろの具合が悪いんだ。家に戻れと言ってきた」とはにかんだような笑顔を浮かべた。別れるために嘘をついた。シオリはそう思った。
「そうなんだ」と言うのが精いっぱいだった。私はどうするのよ、その言葉が出なかった。
 波が打ち寄せては繰り返す。
 彼は子供のように波と戯れた。彼が家に帰ると言わなかったなら、シオリも一緒に戯れたかもしれない。けれど、そんな気分にはとてもなれなかった。なんだか、心の中をくり抜かれたような気持ちだった。
「ごめん」と呟くように彼は言った。
「でも、君は強い人だから……」
 シオリは首を振ろうとしたけれど、なぜか微笑んでしまった。
 微笑みを見てほっとしたのか、彼も微笑んだ。
「思ったとおり、君は強い人だ。これで心置きなく帰れるよ」
「いつ帰るの?」と言ってしまった。聞くつもりはなかったのに、なぜか言葉が勝手に飛び出た。
「来週、早い方が良いと思って……もう、ここで別れよう」
これ以上、一切何も話さないという強い決意を示すかのように口を堅く結んでいた。
「分かった」とシオリは呟くように言った。
 風が強く吹いた。一陣の砂塵が舞った。
 彼が見た。いや見たような気がしたのである。定かではなかった。何しろ、砂粒が目に入って目を閉じてしまったから。ただ反射的に微笑んだ気がした。それは単なる癖であったが、そんな癖を彼は知らなかったであろう。
「私はどうなるのよ」と言いたかったが、何も言えずまま、それで恋のドラマの幕は下りてしまった。
 
時が過ぎ。春が終わり、夏が来て、その夏も終り、そして、もう秋。シオリには、ただ時間だけが過ぎてしまっただけ。仕事に身が入らず、ミスすることが多くなり、何度か厳しい叱責を受けたこともある。ふと、気づくと、自分の部屋の片隅にいて、濡れて泣き崩れていることもある。
 
 母と娘が暮す家では、会話らしい会話などない。あったとても断片的な会話しかかない
たとえば、
「ごはん食べた?」と聞かれれば「食べた」
「今日は遅いの?」と聞かれれば「遅くない」
 それでいて、仲が悪いわけでもない。母も娘も自分の生活をそれなり続け、互いにお互いの領分を侵さないようにしていた。
 秋も半ばの休日のことである。
 母が娘に向かって、「足が悪くて、もう自転車に乗るのがつらくなったから捨てようと思うけど」と言った。
「自転車があったの?」
 シオリはふいに閃いた。海に行こうと。
「私が使う」
 
 家から海辺まで歩けば一時間近くかかった。だから歩いていったことはない。行ったのは、もう女子高校生の頃だ。
 父の仕事で引っ越しして住んだ高校生の時。だけど、この海辺の町のことはほとんど何も知らない。いつか結婚して離れようと、ずっと思っていたから。けれど、結婚もできず、ここから離れられないでいる。
 自転車に乗るのは、女子高校生以来だった。すぐに乗れた。海辺に近づくにつれ坂が多くなった。古い家が多い。坂の上に黒いネコが三匹いた。近寄って撫ぜると目を細めた。かわいいと思った。飼いたいと思ったけれど、母が嫌いだった。
 坂を上りきると、海が見えた。海は青かった。浜辺まで距離があったが、あの日と同じ潮騒の音がした。だが、タカシはいない。シオリはあらためて思い知られた。あの日はもう二度と戻って来ないことを。