差出人のない手紙
三月になり、東京の大学へ進学することが決まったエミが、身の回りの物を整理し、幼い頃の大切な物の一部を庭にある蔵に仕舞おうとしたときのことである。
エミの家は、金沢市でも有数の地主で、家の敷地は六百坪もある。庭も広く、季節のうつろいが手に取るようにわかるほど季節の花や木で満ちている。春は花が開き、夏には緑の影を落とす。秋は再び春を迎えたかのように華やいだ色に満ち、冬は墨絵のような景色に染まる。全ての季節にそれぞれの色合いがある美しい庭の一角に白い壁の蔵があり、あまり使われない物などが仕舞われている。
春になったとはいえ、雪がなおもちらつきまだまだ寒い。暖房のない蔵の中も外と変わらぬほど肌寒い。そのうえ締め切っているせいかどことなくカビ臭い。とても長くは居られるものではない。用が済んだら、さっさと蔵から出ようと思った。仕舞う物の置き場所を決め置いて、出ようと思った矢先、奥の机にきれいな箱が置いてあるのを見つけた。埃は被っていない。ひょっとしたら母が置き忘れたものかもしれないと思ったら、興味が湧き、箱を開いてみた。すると、中から、母レイコの手紙やら日記が出てきた。母は寡黙な女だった。そのせいか、どんな人生を歩んできたのか、エミは聞いたことはなかった。それゆえにどんなことが書いてあるのかという興味が起こった。罪悪感が無かったわけではないか、それより興味の方が強くて開いてみることにした。
蔵の中には小さな窓が一つある。そこから入ってくる明かりを頼りに、日記や手紙を見たものの、さほど興味を湧くような内容ではなかった。箱の一番下のところに本があった。取り出してみると、花図鑑があった。写真が一枚はさまれていた。女学生の頃の母の写真である。二十年以上も前のものであろう、すでに茶色に変色している。写真の中の母は小さい。大柄なエミとは、親子とは思えない小さい女だった。
エミは感受性が豊かであったので、人が思いもよらないことで傷つくこともあった。その時も、母が自分の顔や背丈に似ていないということで、少なからずショックを受けた。ひょっとしたら母の子供ではないのではないかとさえ勘繰ったりした。ついさっきまで明日への意欲で満たされていたのに、急に心の中が暗闇に包まれた。馬鹿げている。どうして詰まらないことを考えてしまうのか、と自分自身を責めてみるもの、一度生まれた疑念を消し去ることはできない。こんな心の内を知ったらどんなに母が悲しむことか……。
エミは箱の中に写真をしまい、箱を元に戻そうとした時、つまずいて箱を落とした。その際にどこかに隠れていた古い写真が落ちた。母がいて、隣にとても背の高い男が映っている。恋人同士のような雰囲気を感じた。よく見ると、男の顔の作りが自分に似ていると思った。そのとき、エミは閃いた。ひょっとしたら、自分はこの写真の男と母との間にできた子ではないかと。それも許されない恋の末にできてしまった。そう考えると、今までのいろんな疑問が、全てが解決できた。まず顔のつくりや背丈が母に似ていないこと。一人っ子なのに、娘に甘い顔を見せたことはないのは、望んで生まれたわけではないこと。父の話をすると不機嫌な顔をすること。……だが、全ては単なる憶測でしかない。あと一歩で真理にたどりつける。そんなもどかしさを感じながら、箱を元に戻した。
蔵に入った次の日のことである。レイコが庭でぽつんと立っていた。エミが近寄ってどうしたのと尋ねた。
「梅が咲いているの」とレイコが指差した。
指が示す方に目をやると、冬枯れの風景の中に淡い色の花が小さな灯火のように咲いている。
「もう、春の訪れだね」とエミは嬉しそうに呟いた。
「ねえ、この家を売ったら、嫌?」と母が唐突に聞いた。
エミは驚いきの余り言葉が出なかった。
「こんな広い家は今の時代に合わないの、税金も高いし……いっそのこと郊外にでも引っ越ししようかと思っているの。春になれば、エミも東京に行くでしょ? そうなると、この広い家も不要だわ。おばあちゃんが死んでもう十年も経つし、ちょうど、いい時期じゃないかなと思っているの」
「売るのは、母さんの自由だと思う……」とエミは呟いた。
エミにとって、家を売るか売るまいかなどどうでも良かった。彼女は余りこの北の国が好きではなかった。冬は寒くて、そのうえに雪が多い。そのせいで一日中家のなかに閉じ込められる。歳を取ったなら、暖かい南国の島のどこかで過ごしたいと思っている。一度出たら、もう戻ってこようとも考えていない。それが古い歴史を持つ家の滅亡に繋がるとしても。
「手紙は誰から?」とエミは聞いた。
「何のこと?」とレイコとぼけた。
「数日前にきた差出人のない手紙のことよ」
美しい書体の字で母宛に来たのをエミは見たのである。
母は少し顔色を変えたが、ああ、あれ、古い友達から」
「男の人?」
「どうして、そんなことを聞くの?」
エミは蔵で見つけた、あの写真の男からではないかと思った。
「別に。ちょっと興味を持っただけ。ほんのちょっと」
あの写真の男は誰? 私のお父さんでしょ。そしていまだに手紙をやりとりしている。なぜ……
「どうでもいいけど、もう学校に行く準備はできたの?」
「できたよ。ついでに要らないものはみんな蔵の中に入れておいた。蔵の中は面白いね。昔のいろんなものがあって」
エミは母の顔をうかがった。
だが、「あら、そう」と気のない返事をしただけであった。
結局、エミは、蔵で見つけた写真の男のことも、母に尋ねることもしなかった。差出人のない手紙のことも分からずじまいだった。