花火の音
……恐らく30度を優に超えているのだろう、今夜も酷く蒸し暑かった。
なによりこの凄まじいまでの人の群れが、雲一つ無い夜空に莫大な熱量を放出し、大気を更に暖めている……その情景が目に見えるようで、何もかもがひたすら不快だった。
正直花火なんてどうでもいい。
人ごみは面倒だし煩わしいだけなのだが、わざわざ会社を休んでまで東京に出て来たリカが「どうしても」と言って聞かなかったのだ。
「あ、見えた! あそこ!」
思わず声の示す方に目を向けると、それまで音だけだった花火が、ビルの谷間に確かに連続して確認できた。
「サクちゃん、やっぱり東京の花火は凄いねぇ!」
しきりに感嘆の声をあげるリカに適当な返事を返して、ほとんど動きの止まってしまった人の流れに溜め息を漏らす。
ずるずると足を引き摺るように歩く人の流れは、動いたり止まったり、奇妙に統制がとれて見え、いっそ轍か線路が無いのが不思議なくらいだった。
このまま晴海通りを進めば勝どき、あと少し……橋まで行けば多少は涼しくなるだろうし、もっと良く見えるはずだったが、この調子では辿り着いた頃には花火は終わってしまうだろう。
「やっぱり違うわ! 花火が途切れないもの! 綺麗!」
花火を図案化した淡い色合いの浴衣のリカ。
薄く汗を滲ませた額に柔らかい髪が数本……。
「うん、綺麗だな……」
手にしたペットボトルの水を、瞳を閉じて飲み干し再び花火を見つめるリカ。
そういえば付き合いはじめて何年だったかな?
不意にそれまで腹のどこかにわだかまっていた何かが失せた。
気の済む様にしてやろう。
少し傲慢かもしれないが、とにかく素直にそう思えた。
「もう少し行けばもっと良く見えるよ?」
「……ううん、大丈夫、ここで十分」
「本当に?」
微かに頷き、花火を見つめるリカの横顔が堪らなく愛しい。
可愛らしいピアスが目に留まり、それが半年も前に行ったドンキで、戯れに買った安物だった事を思い出す。
「何?」
知らず知らずにリカのピアスに触れていたのだ。
「気に入ってるんだ、これ……」
恥ずかしげに言うリカの手を引いて、流れを無視して歩き出す。
「――サクちゃん? なに? どうしたの?」
「まだデパート開いてるから」
「え? なに?」
「ピアスを――買おう」
「サクちゃん! ちょっと待ってってば! ……いきなりどうしたの?」
かなり強引だったのは間違いないが、どうしても欲しかったのだ。
別にピアスでも何でも良かった。
何が、ではなく、何か、が欲しかったのだ……。
散々文句を言いながらも、上気した頬を更に染めつつ、買ったばかりのピアスを付けてくれたリカ。
「どう? 似合う?」
似合うとか似合わないではない。
……ガス灯に模した銀座の街灯に浮かぶ、浴衣姿のリカ。
「とっても綺麗だ。よく似合う」
嬉しそうに笑い再び手をつないでくる。
そうか、自分が東京に出て来てもう二年だから――。
「ね、次は何時会えるのかな?」
それはとっくに決めていた答えだった。
「来週。久しぶりに宇都宮かえるよ」
歩き始めたリカの足がとまる。
「え? 来てくれるの?」
「リカの両親にも挨拶したいし、ウチの親にも会って欲しい」
一瞬訝しげになったリカが俯いて、呟くように答える。
「……それ、普通は指輪を買ってから言うセリフなんだよ?」
「あ、そうか、今から買おう――」
「ばか。冗談。……嬉しい」
「そしたら良いかな?」
「うん」
ざわめきの中に一際激しい、遠雷のような花火の音が聞こえてきた。
「そろそろ終わっちゃうね……」
「ごめん、花火、もっと見たかったよな?」
「そうじゃなくて、また、見に来たいな……」
「来年も一緒に……。その次も、その次もずっと、な?」
「……うん」
「何か食べて帰ろう」
「うん……」
付き合いはじめて五年。
遅いってほどじゃない。
……よな?
リカの手をとり、有楽町に足を向ける。
久しぶりに、リカの手を、しっかりと握った気がした。
おしまい
※
某『あうおね』の某ブログで頂いたお題に従って作った作品。
お題は『轍』『雲』『ガス灯』でございました。